千葉市歴史年表

 

西暦

 

できごと

709年 和銅2年  行基が千葉寺建立との伝承。
757年 天平宝字1年  大日寺、創建?
889年 寛平1年  桓武天皇曾孫高望王、平姓を賜る。上総介に任ぜられ、関東に下向。

935

承平5年

 平将門の乱、起こる。

940

天慶3

 平将門、敗死。

1000年 長保2年  覚算、北斗山金剛授寺(現千葉神社)開基。

1020

寛仁4年 

 前上総介菅原孝標、いかた・くろとを通過(更級日記)。

1028

万寿5年 

 平忠常の乱(―1031年、長元4年)。大椎城[おおじ](緑区大椎町)は忠常の城との伝承(戦国時代の土気酒井氏の出城という説が最近は有力。)

1118年 元永1年  「先祖千葉大夫、元永以後、為当庄検非違使所」(『吾妻鏡』)。

 5月24日、千葉常胤誕生(『吾妻鏡』)。

12世紀初め    千葉庄、成立。八条院領。庄官として千葉氏が定着。土気地区をのぞく現在の千葉市の範囲にほぼ相当。
1127年 大治2年  7月16日、千葉御神事はじまる。この頃、千葉氏、千葉を本拠とする(『千学集抄』)。この年、千葉氏が大椎城から千葉猪鼻城に移ったとの説は、最近では疑問視されている。

1170

 嘉応2年

 葭川[よしかわ]水源地(千葉市若葉区みつわ台5丁目、都賀の台付近)に、紅嶽(べにたけ)弁財天、創立.。千葉常胤が夢で弁財天を見たとの伝説。

1180

治承4年

 8月、源頼朝、相模国石橋山の合戦で平家方に破れ、安房へ逃れる。
 9月、結城浜合戦。源頼朝が上総から下総に向かうと、千田荘(千葉県多古町)判官藤原親正、一千余騎を率いて出陣。千葉の堀込に押し寄せて、堀之内に放火。千葉常胤の孫、加曽利冠者成胤が千葉館西下の結城浜(千葉市中央区寒川町付近)で防戦。
 9月20日、源頼朝、千葉妙見に参詣?

1183年 寿永2年  上総広常、能常父子、源頼朝に誅殺される。※上総氏は両総平氏の長であり、千葉氏をはるかに凌ぐ勢力であった。こののち上総氏は千葉常胤の孫常秀が継承した(上総千葉氏)。

1185

寿永4年元暦1年

 千葉常胤、下総国守護となる(吾妻鏡)。

 

鎌倉中期

 寺山郷「百姓橘重光」が「名主寺山殿」の非法を千葉氏に訴える(中山法華経寺所蔵「天台肝要文」紙背文書1号)。石井進氏は寺山殿の居館 を動物公園付近と推定。参照、石井進「たたみなす風景5 中世荘園行 下総国寺山郷」 『みすず』396199420-28頁。

1271年 文永8年  千葉頼胤、肥前へ下向。
1276年 建治2年  千葉宗胤、九州へ下向。

 来迎寺、開山。

1284年 弘安7年  大日寺、松戸馬橋より千葉に移転?
1289年 正応2年 貞成上人により金光院が創建される。金光院にこの年の銘のある板碑。 
1327年 嘉暦2年  千葉貞胤、東禅寺(曹洞宗)を建立。

1334

建武1

 廿五里[つうへいじ]址、この年「建武元年」の紀年銘のある板碑がモノレール建設に伴う調査で出土[1983年]。14世紀前半には廿五里城址南縁の墓域が成立か?

1335

建武2

 1月、相馬親胤・千田胤貞、「千葉館(楯)」を攻撃。この記事は千葉城の記事の初出。「千葉楯」は、最近では、猪鼻城のことでなく、現在の千葉地方裁判所敷地(古名、「御殿」)にあった低地の方形館とする説が有力である。

1336

建武3年、延元1

 10月11日、千葉貞胤、南朝方の新田義貞に従ってきたが、越前木目峠で雪中行軍。遭難しかかり、北朝方に降伏。以後、北朝方となる(『太平記』)。

1379年 康暦元年  千葉満胤、日蓮宗に帰依。本円寺(日什門流)を建立。

1410

応永17

 寺山新兵衛入道、寺山五兵衛入道、木内五郎左衛門が寺山に所領、平新左衛門と原越前入道が、長峯・ 高篠(高品)に所領、との記録(『香取造営料足納帳』)(高篠の地名の初出)。*原氏 は千葉氏の出であり、その重臣。実力において主家である千葉宗家を圧倒し、江戸時代に「千葉に原」ということわざができたほどだった。原氏の名字 は原村に由来するとの説がある。

1416

応永23年

 上杉禅秀の乱。関東管領上杉禅秀(氏憲)、千葉兼胤ら鎌倉公方足利持氏に反する。

1438

永享10

 永享の乱828日、室町幕府、鎌倉公方足利持氏の討伐を命ずる。鎌倉公方対関東管領上杉(&室町将軍家) の対立。

1455

享徳4/康正1

 3月、公方側の原胤房(千葉家の有力家老)が管領側千葉宗家の千葉城を攻撃。(なお千葉城を猪鼻城とする従来の見方に疑問が出されている。)千葉介胤直、その子胤宣は、香取郡多古に逃げ、志摩城多古城に拠るが、原胤房、馬加康胤(千葉胤直の叔父、馬加城主)の攻撃を受け両城とも落城。千葉嫡流家滅亡。以後千葉宗家は、馬加康胤の子、輔胤 の系統が継承。
 足利成氏、古河に拠り、古河公方となる。美濃の東常縁(千葉氏の一族)、幕命をうけて下総に下り、馬加城攻撃。康胤・胤房ら敗走。

1456年 康正2年  東常縁、上総八幡郷で、馬加康胤を討つ。

1460-65年頃、

寛正1-6

 原胤親の子、光胤が下総国原村千葉市若葉区原城の可能性?)に居住との記事(『千葉実録』)。

1467

応仁1

 1月8日、千葉妙見社焼失。118日、応仁の乱、勃発。

1469年 応仁3年  東常縁、下総より京都への帰洛の途につく。
1471年 文明3年  「原越後入道道喜(胤房)、小弓館ニテ打死」(『本土寺過去帳』)

 古河公方足利成氏、千葉孝胤を頼る(「千葉御動座」)。翌年、古河に戻る。

1484

文明16

 63日、千葉宗家、平山城をへて本佐倉城(酒々井町本佐倉・佐倉市大佐倉)に本拠を移す。(『千学集抄』による。実際は。1469-86頃か?)北年貢道(千葉−臼井・本佐倉、主要地方道千葉佐倉印西線にほぼ該当)の意義増大。千葉庄は小弓の原氏の支配下に入った。

1486

文明18

 太田道灌が上杉定正に暗殺される。

1485年 明応4年  伊勢宗端(北条早雲)(1432-1519)、小田原城を奪取。
1490年 延徳2年  千葉宗胤(?)、宗胤寺(もと千葉地裁西側、現在、弁天町)を建立との伝承。

1505

永正2

 1115日(満月の日)、本佐倉城の千葉昌胤(14951546年)、高品(当時は高篠)から千葉妙見宮(千葉神社)に参詣。元服。
*
本佐倉移転後も、千葉宗家は嫡男の元服を千葉妙見宮に参詣して行うことを例とした。この 際、高品(城)を一時的居所とした

1506年 永正3年  「蔵人丞殿法名郎寿 東六郎殿証仏果 永正三丙子八月 千葉井花ニテ打死諸人同」(『本土寺過去帳』)「永正三年」は「永正十三年」(1516年)の誤記か?)

1509

永正6

 柴屋軒宗長、原氏小弓館を来訪。千葉妙見宮の祭礼を見物。

1514

永正11

佐倉城下で『雲玉和歌集』、編纂。幡谷加賀守の歌、掲載される。

1516年 永正13年  8月、三上の乱。三上但馬守(三上佐々木氏、上総真名城主?)、千葉を襲う(扇谷上杉朝良の指令?)。猪鼻城落城か。

「一條院薄墨の御証文は、範覚〔金剛授寺・千葉神社の従持〕の世に井の鼻を持たれし時永正十三年丙子八月二十三日三上但馬守二千余騎にて押寄せて打落とす。此の時薄墨の御証文は寶器とともに皆失せにけり。天正十年壬午まで六十六年也。」「忠常開基の後、常胤の御判は御縁記引きつけ御文書不入の状、一條院の薄隅の御証文は三上の乱に猪鼻にて失せにけり。」(『千学集抄』)

 11月、北条早雲、藻原の妙光寺(茂原市)へ制礼。

1517

永正14

 10月、真里谷城主武田信康、早雲衆の助力をえて原胤隆の小弓城を攻略。

 10月、三上佐々木氏の三上城=真名城落城か?(北条早雲攻撃?)

1518

永正15

 古河公方足利高基と対立した弟、足利義明、 上総武田氏に招かれ、小弓に御座所を定める(小弓御所)。本佐倉の千葉氏に敵対。「その時範覚小弓に御神を移さる

1520年 永正17年  小弓公方方里見義通(よしみち)、本佐倉城近くの「田井・横山・小沢要害」を攻め、「蕨」(四街道和良比堀込城か?)に帰陣(6月18日「道哲書状写」)。

1523

大永3

 足利義明、千葉へ侵攻。千葉利胤、千葉妙見宮で元服できず。

1538

天文7

 107日、第一次国府台合戦。北条氏康・氏綱と里見 義堯・足利義明連合軍とが戦う。義明、敗死。原氏、小弓城に復帰。小弓城の北方1.5kに生実城を築城(従来の通説)。
  この頃より下総の大半は北条氏の傘下に入る。

1547

天文16

 千葉妙見遷宮。

1551年 天文20年 金親町中原の金光院が火災にあう。原胤清が山林20町歩を寄進。金光院再建され、金親町の現在地に移る。

1555

弘治1

 10月10日、上総小田喜城主、正木大膳亮時茂、「千葉へ乱入、宿中放火」。このため千葉親胤、予定していた元服の儀を日延べとし、1223日、千葉妙見宮で元服。

1557

弘治3

 8月、第三次川中島の戦い。

1560

永禄3

 519日、桶狭間の合戦。

 里見方、上総勝浦城主、正木時忠が、香取郡小見川富田台に着陣。10月24日、千葉胤富が「寺山城」(外山信司氏は廿五里城と推定)在番の大須賀薩摩丸(大須賀政朝?に出陣を要請。正木時忠「下総悉本意候者」。薩摩丸敗退か?
 北条氏康、原らの軍勢を率い、久留里城を包囲。 里見義堯、長尾景虎(上杉謙信)に救援要請。

1561

永禄4

 3月、長尾景虎(上杉謙信)、北条氏の小田原城を包囲。閏3月、関東管領上杉家を継ぐ。里見方、正木時茂、原氏の臼井城・生実城を陥落させる。

1564

永禄7

 1月9日、第二次国府台合戦。里見義弘敗走。原胤貞、臼井城・生実城を回復。

1565

永禄8年 

 2月12日、北条氏政、原胤貞らに酒井胤治の土気城を包囲させる。胤治、土気城に籠城。東金酒井氏は北条側につき、同族相争う。上杉謙信に救援要請6月、胤治、里見につく(上杉より里見に書状)。11月、謙信、関東に出陣。9月18日、正木時忠、府馬、森山勢三千を率い、木内右馬介の守る米野井城(蛇蜂城)を包囲。20日突入。「木内式部太郎胤倫は、血路を開いて寺山城(千葉市東寺山または西寺山)にのがれた。」千葉胤富、大須賀氏、円城寺氏に反撃を指令。木内胤統、大須賀尾張守とともに、富田台(小見川富田)に出陣、府馬、森山勢と戦う。「府馬、森山勢は敗走した。正木勢は、米野井城を捨てて、房州へ逃れた。しかし、城は焼かれていたので、胤統は千葉の寺山城に移った。」(勝又清和「千葉家の北条派、反北条派の葛藤」、房総歴史文学会編『戦国の房総を語る』1985年暁印書店75-6頁。*いかなる資料に依拠しているか、不明。)

1566

永禄9

 上杉謙信、原胤貞の臼井城を包囲。里見勢北進。この頃、[わらび](四街道市和良比)は里見方の中継基地として機能していた。正木氏、曽我野にて大戦。原胤貞敗走。

1568

永禄11

 9月、信長、上洛。10月足利義昭を将軍とする。

1569

永禄12

 里見勢が「臼井筋の郷村」(高品、原、東寺山?)に放火。里見方、生実城近くに城を築城。

1570

元亀1

 6月、生実城落城。原胤栄、生実城を捨て、以後、臼井城を本拠とする?

16世紀後半

 

 高品城、大規模な改修・整備。
 廿五里城、南縁の墓域部分に土塁などの城郭施設を建設。

1571

元亀2年

 安藤勘解由(高品城在番の千葉家直臣か)および高篠念仏衆 高品等覚寺薬師如来像を造立。

6月、里見氏、両総西筋の窪田山に築城。

8月、北条氏政、胤富の要請を受け、生実近辺へ派兵。

9月2日、北条氏、本行寺(浜野)に禁制。

 9月12日、信長、比叡山延暦寺を焼き討ち。
 11月、里見義弘が小弓を占領。千葉胤富の軍と合戦。嫡男邦胤、千葉妙見宮で元服できず

1573

天正1

信長、足利義昭を追放する。室町幕府滅亡。

1574

天正2年

3月、原胤栄、臼井城へ移る

1575

天正3年

 521日、長篠の合戦。

1576

天正4年

 織田信長、安土城築城。

1577

天正5年

1月、小田喜正木憲時、上杉謙信に関東出陣を要請。2月、里見義弘、上杉謙信に関東出陣を要請。5月、原胤栄、生実大厳寺の寺領を安堵。 

北条氏、上総に侵入。土気酒井氏、北条につく。

1578

天正6年

 313日、上杉謙信、病死(49歳)。?里見義弘没(54または49歳)。

1582

天正10

 62日、本能寺の変。

1589

天正17

 11月、豊臣秀吉、北条氏討伐を決意。北条氏直に宣戦布告。

 氏直、分国内諸軍に小田原参陣を命ず。千葉重胤ら湯本口の防備につく。

1590

天正18年 

 6月6日、原胤栄、没(野田十文字で戦死説あり)。

 75日、北条氏、豊臣秀吉に降伏。7月13日、秀吉、関東を家康に与える。別働隊により、 房総の北条方の諸城落城。高品城、廿五里城も機能停止か?
 8月1日、徳川家康、江戸城に入る。房総に家臣を配置。里見義康は、秀吉への参陣が遅れ、上総下総の領地を没収され、領地は安房一国(9万2千石)となる。
12月、原胤栄、徳川家臣・酒井家次と野田十文字野で戦い戦死か?(39歳)。

1593年 文禄2年  大久保忠隣、徳川秀忠の家老となる。
1594年 文禄3年  大久保忠隣、家督を継ぎ、小田原6万5千石を領す。
1600年 慶長5年  9月、関が原の戦い
1603年 慶長8年  2月12日、徳川家康、征夷大将軍の宣下を受ける。
1604年 慶長9年  家康、川越、浦和、越谷、土気、東金に御鷹場を設ける。
1605年 慶長10年  4月16日、徳川秀忠、征夷大将軍の宣言を受ける。この年、大久保忠隣、老職(筆頭)となる。
1610年 慶長15年  1月23日、土井利勝、佐倉に移封される。老職となる(NO2)。10月25日、秀忠、上総辺で銃猟をおこなう。
1611年 慶長16年  1月、土井利勝、下総国鹿島村で佐倉城起工。

1613

慶長18

 4月25日、佐渡奉行大久保長安駿府で死去。家康、長安一族を粛清。10月20日〜11月29日、家康、武蔵国戸田、浦和、川越、忍、岩槻、越谷、下総国葛西で鷹狩。11月2日〜20日、秀忠、武蔵国鴻巣で鷹狩。12月3日、家康、駿府帰城のため江戸出発。6日、家康、相模中原(茅ヶ崎)にて、馬場忠時より幕府筆頭老職大久保忠隣謀反の密告を受ける(実態は、忠隣を陥れんとする本多正信正純父子の陰謀?)。家康、本多正信を江戸に派遣。12日夜、家康、秀忠の使者土井利勝と密談。13日、家康、東金土気辺で鷹狩するとの理由で江戸城へ戻る。佐倉藩主土井利勝が東金御成街道を三日三晩で造成させる千葉御茶屋御殿もこのとき急造か?この年、東金御殿竣工。19日、忠隣、伴天連切支丹追捕のため上洛を命じられる。この年、冬、下総岩富領主北条氏重、下野国富田へ転封。

1614

慶長19年

 1月5日、大久保忠隣、小田原より京都へ出立。1月7日〜12日、家康、葛西・千葉をへて、東金で鷹狩。家康、利勝等に下総吉田・佐倉辺で猪狩をさせる。1月18日、忠隣、京で切支丹宗徒を追捕し教会を焼く。19日、忠隣改易される。24日、家康、小田原城入城。25日、秀忠小田原城入城。家康と密談。小田原城破却が命ぜらえる。東金新道(御成街道)作道にあたり「高品」村、原村とともに9町を分担との記録(『従舟橋東金新道作帳』)。(地名高篠」から「高品」へ?)。9月9日、家康、大久保忠隣の娘婿、里見忠義につき、忠隣荷担等を理由に、安房の領地をめしあげ、鹿島郡の領地(3万石)の換地として伯耆国倉吉(4千石)を与える。11月〜12月、大坂冬の陣。

1615

元和1年

 4月〜5月、大坂夏の陣。10月21日〜11月14日、家康、武蔵国戸田、川越、忍、岩槻、越谷で鷹狩。10月、30日、秀忠、武蔵国鴻巣で鷹狩。11月15日〜27日、家康下総国葛西・千葉をへて東金で鷹狩。船橋葛西をへて江戸に帰城。途中、金親村で領主神尾守世御膳献上。11月16日〜23日、秀忠、下総国船橋を経て佐倉で鹿狩。12月4日〜16日、家康、江戸より駿府へ帰城。高品村、旗本中山勘解由の知行地となり、300石分を知行する。

1616年 元和2年  7月17日、家康、駿府にて病死。
1617年 元和3年  11月、秀忠、越谷、東金で鷹狩。

 里見家、伯耆国倉吉の領地召し上げられ、廃絶。

1618年 元和4年  10月29日〜11月12日、秀忠、越谷、土気・東金辺で狩。
1619年 元和5年  10月21日〜12月5日、秀忠、土気・東金、下総市川辺で狩。
1620年 元和6年  9月16日、徳川家光、東金辺で狩。
1621年 元和7年  11月3日、12月3日、秀忠、東金、忍で鷹狩。
1623年 元和9年 7月27日、家光、将軍宣下を受ける。10月13日、秀忠、東金で鷹狩。のち川越へ到る。
1624年 寛永1年  土気の茶亭竣工。
1625年 寛永2年  秀忠、東金、越谷で狩。
1627年 寛永4年  11月22日〜12月3日、秀忠、東金で鷹狩。
1628年 寛永5年  11月、秀忠、東金で狩。途中、土井利勝の岩富村別館(岩富城跡との見方あり)を訪問。
1629年 寛永6年  12月、秀忠、東金で狩。途中、土井利勝の佐倉泉村の亭(千葉市若葉区上泉・下泉付近か)を訪問。
1630年 寛永7年 11月18日〜12月4日、秀忠東金、忍で狩をし、利勝の所領に来る。

1632

元和9

124日、徳川秀忠、病没。

 東寺山村の一部、旗本中山勘解由の知行地となる。

1633年 元和10年  土井利勝、下総国古河へ移封。以降、将軍家による東金での鷹狩が途絶する。
1636年 元和13年  東金御殿、増築。

1664

寛文4年 

 原村、佐倉藩主松平乗久の領知となる。のち旗本一色家の知行所となる。

1671年 寛文11年  4月、東金御殿、取払われる
1674年 延宝2年  「千葉の町を出づる所の左の方に、古城あり。伊野花と伝ふ。里見氏の家老円城寺某と伝ふ者の居城なりと伝ふ」「妙見寺の東に千葉屋敷あり」水戸光圀『甲寅紀行』

1698

元禄11

 「一 御殿惣構六拾軒四方 御茶屋跡御□□□」『下総国千葉郡仲田村差出帳』寅五月(鳥海和家文書)。高品村、幕領と旗本中山氏知行所の相給支配。

1702

元禄15

 高品村、村高317石963合。

1763年 宝暦13年  「一 うつし野原ニ付 上様先年御成之節御茶屋御殿と申伝候古跡御座候」『下総国千葉郡中田村差出帳』未八月(逸見登家文書)

1782

天明2

 旗本本橋守勝が藤代惣左衛門とともに高品等覚寺を再興。

1788

天明8

 高品村、幕領分高17977合。

1839

天保10

 高品村、さつま芋取引をめぐって江戸商人と争論。

1855

安政2年

 高品村、旗本中山氏家数27軒、人数131人(男62、女69)、馬11匹。幕領分家数3件、人数11人(男5、女6)。

1868

明治1

 下総知県事の管轄となり、翌年、葛飾県となる。

1870

明治3

 曽我野藩に属す。

1931年 昭和6年  御茶屋御殿跡、開墾される。「予の知人小野某の説に嘗て御殿址に入りて礎石を見しが間口六軒奥行三間位に配置されてありたりと曰へり」「筆者は生家の甥小出用助に頼み秋本氏より其の礎石一個を譲り受け昭和七年四月二十三日我邸内に搬入す石は伊豆産の丸石にて重量四貫百五十匁あり」「表門は金親村の金光院に裏門は上泉村宝泉寺に下げ与へられ両寺院は何れも之を境内に移築し山門として現存せり」。(一般的伝承では逆)。小出古城『古蹟』1936年。
1936年 昭和11年  御茶屋御殿跡地開墾前後の様子を伝える小出古城『古蹟』なる。

 

 (参考文献)

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「千学集抄」『改訂 房総叢書 第二輯 史伝(1)(2)』1959年
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石井進「たたみなす風景5 中世荘園行 下総国寺山郷」『みすず』396号1994年20-28頁。
笹生衛・柴田龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年446-453頁。
武田宗久解説「千葉市の散歩道シリ−ズ20 都賀の台・みつわ台・高品周辺」
千葉県教育庁生涯学習部文化課編『千葉県歴史の道調査報告書17 佐倉道』千葉県教育委員会1991年
千葉市史編纂委員会『千葉市史 資料編1 原始古代中世』1976年千葉市
千葉市史編纂委員会『千葉市史 8巻』千葉市。
飛田正美「廿五里遺跡」『平成9年度千葉市遺跡発表会要旨』千葉市文化財調査協会1998年
外山信司「下総高品城と陸上交通」『千葉城郭研究』4号1996年27-46頁。
笹生衛・柴田龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年。
簗瀬裕一・外山信司『千葉市高品城跡I』大和ハウス興業、1997年。
『千葉県文化財センター研究紀要 20 中近世城館の構造と特質―重要遺跡確認調査の成果と課題3―』第2章第1節 2000年9月
小高春雄『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1 ―旧下総国地域―』千葉県教育委員会、1995年
簗瀬裕一「千葉城跡概説―千葉氏居城の基礎的考察」『千葉いまむかし』No.11、1998年3月。
簗瀬裕一「中世の千葉」『千葉いまむかし』No13、2000年。
山本勇「千葉城跡」『日本城郭大系第6巻千葉・神奈川』新人物往来社、1980年。
山本勇「千葉城」千葉市史編纂委員会1993年。『千葉市図誌』上巻。
岡田茂弘『千葉御茶屋御殿 第5次調査概報』千葉市教育委員会・千葉御茶屋御殿跡調査会、1993年3月。
本保弘文『東金御成街道を探る』暁印書店。

 ※以上はあくまで暫定的なものです。

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