8月の遺跡めぐり 

仁戸名・月ノ木貝塚周辺を歩いてみよう

【日 時】 2000年8月15日(火)9:00-11:00(台風接近のため13日を順延)    
【集合場所】仁戸名小学校正門(千葉市中央区仁戸名町)

※交通 JR千葉駅より、千葉中央バス「鎌取行き」または「誉田車庫行き」または「レクリエーションセンター行き」に乗車して約25分。「仁戸名局前」下車、徒歩5分。バスは約10分間隔で運行。

【コース】 
へたの台古墳群跡へたの台砦作山古墳群へたの台貝塚

道免貝塚月ノ木貝塚月ノ木砦

●番外編(聖人塚古墳、八坂神社、仁守寺、千手院)

      ● 仁戸名付近地図(マピオン)

      ● 月ノ木貝塚周辺遺跡マップ(大きいファイルです。約500k)

・8月の遺跡めぐりの模様はyygucciさんの千葉市の貝塚貝塚町の貝塚でも報道されています。ぜひご覧ください

1.へたの台古墳群跡とへたの台砦(とりで)

 仁戸名小学校の敷地には、古墳(円墳)が8基ありました(発掘で古墳として確認されたものは5基)。古墳時代後期(6世紀)の古墳です。この土地の小字名をとって、「へたの台古墳群」と呼ばれています。1969-70年に小学校建設にともなう発掘調査が行われ、すべて消滅しました。正門から校舎へ進んだところに、説明板が設置されています。(写真yygucci氏撮影)
 仁戸名小学校は、支川都川にむかって突き出た南北に細長い舌状台地上にあります。右の図の中央やや右の下(東北)に台地のくびれ部分がありますが、小学校の正門は、ここにあたります。校庭は、この付近から左(南)、敷地の南半分にあたります。(右図はクリックすると大きくなります。

 台地の西縁の北から、第一号墳(直径18.5m)、第二号墳(15.5m)、第三号墳(18.4m)、第四号墳(13.2m)、第五号墳(6.0m)と南北に並び、台地東縁の南に第六号墳(18.0m)がありました。計画的に配置された形跡があるとのことです。右図の四角は、古墳と同時期の住居址です。古墳に近すぎ、生活環境はよいとはいえず、また大半が作為的に焼き払われていることなどから、古墳造営の際の人夫の飯場か番小屋か、あるいは被葬者の「もがりや」ではないか、といわれています。

 左の写真は、玄関付近から見た仁戸名小学校の校庭です。かつては画面の奥の側(台地西縁)に円墳が4基ならんでいたのでしょう。これらの円墳からは、鉄製直刀、刀子、鉄鏃、鉄製轡金具、琥珀棗玉、ガラス玉、水晶切子玉、滑石製模造鏡、などの副葬品が出土しています。主体部が確認されたものは、いずれも船底形の底面をもち、割竹式の木棺直葬であったと推定されています。表土や盛土には古墳時代後期の鬼高式土師器や須恵器のほか、縄文早期〜後期の土器片が混じっていました。

 このへたの台の台地は全体が中世の城郭でもありました(へたの台砦)。城郭のあるじについては、仁戸名小学校付近に仁戸名牛尾氏(→千学集抄)の居館(仁戸名館)があった、という伝承があるとのこと(丸井敬司氏)ですが、確かなことか、わかりません。発掘調査によると、写真の奥(南西端)からこちらの東北端(くびれ部、正門付近)に向かって巾2.5m、深さ0.4mの二条の溝が3,4mの間隙を保ってほぼ平行に走っていました。約2m間隔で柱穴がうたれており、また天目茶碗の破片が見つかっている等のことから、中世城郭にともなう「馬寄せ」の柵木溝と推測されています。そのほか台地の西側の2つのくびれ部分に腰曲輪(こしぐるわ)が明瞭に残っており、小学校敷地内では、土塁状の地形が東西に走っていたことが報告されています。

 小学校正門前の道路から北東方向、台地の東縁を見た写真です。前方、宅地になっており、原地形かどうか、はっきりしないところもありますが、腰曲輪状の地形が台地先端までつづきます。右下は、作山との境をなす細い谷になります。立っている地点は、台地の東縁のくびれ部分にあたります。学校建設の際に、盛土をして、原地形より広くしているようです。発掘調査によれば、このくびれ部分に巾20mの階段状の遺構が検出されています。上述の、校庭を横断する2条の馬寄せの柵木溝は、ここの階段状遺構をへて、“台地の東側縁辺に構築された腰曲輪状遺構につながり、その先端に「馬出し」状の遺構が見られる”と、「へたの台古墳群発掘調査概報」にあります。馬出しとは、虎口(城郭の出入り口)の一種で、門の外側につくる、周囲を掘で囲まれた小さな曲輪です。概報にいう馬出しがどこにあったか、関係機関に問い合わせましたが、わかりませんでした。画面右下の藪の中に谷底より一段高い平坦面がありますが、関係あるかどうか?台地の先端付近かもしれません。へたの台砦についてはへたの台貝塚のページもご覧下さい。

2.作山古墳群

 へたの台の、細い谷をへだてた東対岸の台地が字、作山(さくやま)です。円墳4基からなる作山古墳群(古墳時代後期、6世紀頃?)があります。仁戸名小学校(=へたの台古墳群)から、東方向、約100mほどの距離のところです。仁戸名小学校の南端から東に谷を渡る土橋状の道路を進んで、すぐ丁字路につきあたりますが、そのつきあたりが作山古墳群2号墳です(北西端から数えるへたの台古墳群の呼び方にあわせて仮にそう呼んでおきます)。ここを通る何人の人が古墳に気が付いているでしょうか?
 丁字路を右(南西)にいくと、緩やかな下り坂になりますが、気をつけていると、すぐに道路左わきの林の中に地形の高まりが認められます。作山古墳群のうち、もっとも南の端に位置する3号墳です。写真中央付近に、丸みを帯びた藪の高まりがあるのがわかるでしょうか?これです。(写真yygucci氏撮影)。なお前方の角を左(東)に300mほど行くと、八坂神社(旧名、天王社、祭神は牛頭天王・素戔嗚尊)です。
 別方向から接近して見た3号墳(作山古墳群は、1969年へたの台古墳群の調査の際に、発見された古墳群ですが、そのときは4基からなると報告されていました。その後、いつのまにか、どういう理由でか、3号墳は無視されて、公式の遺跡地図の記載は3基となってしまいました。しかし3号墳はたしかにここにあります。)
 丁字路のところにもどり、学校の方から見て、左(北東)方向に道をいくと、右脇、2,3号墳と同じ林の区画内に1号墳があります。2,3号墳もそうですが、とくに1号墳は道路のために周縁部を削られているようです(4号墳は耕作で周縁部を削られている模様)。1,2,3号墳とほぼ一直線に3基並んでおり、道路が3基をかすめて通っています。いずれの円墳の直径もおおざっぱな目測ですが、8〜18mの範囲に入るのではないか、と思われます。1号墳がいちばん大きいようです。
 緑の中で1500年ちかく眠りつづけてきた2号墳

 間に谷があるとはいえ、わずか100mほどしか離れていない作山古墳群とへたの台古墳群との関係は問題です。古墳の配置も、似ているような気がします。

 鬱蒼とした樹木の向こうをみると、明るい区画が。そこに4号墳があった!

 畑の中にあり、周縁部は耕作されているが、持ち主が古墳の上の雑草を抜いているようです。古墳への配慮が感じられます。

 1号墳のところを通り過ぎ、道を台地先端方向(北東)に進むと、貝殻(確認できた貝種はアサリ)と土師器(はじき)片の散布が見られるところがあります(会員が発見しました)。作山古墳群でこれまでに調査が入った場所は、鉄塔用地(64平米)だけですが、ここはその鉄塔から北へ100mほどの地点になります。報告書は出ていませんが、鉄塔用地では、古墳時代の住居址と中世の土壙が検出されたとのことですから、ここも古墳時代の貝塚の可能性があるのではないでしょうか?(写真yygucci氏撮影)
 道路ぎわの山林に落ちていた土師器片貝殻(右)。
 作山の台地を貫く道路の東側の山林・荒れ地には、土塁の痕跡を思わせる土盛状の地形が何カ所かあります。そのほか人為的な造成によるものではないかと思われる地形が見られます。

 古代人の貝塚は貴重な学術資料の宝の山ですが、現代人のゴミ投棄は困ったものです(写真yygucci氏撮影)

 作山の先端部から西側の谷底へ降ります。へたの台砦と目と鼻の先の位置にある、作山台地先端西側斜面に平坦面がつくられているのがわかります。写真の、樹木が鬱蒼としている部分です。鉄塔用地で中世の土壙が発見されていること、「作山」という地名がついていること、また“仁戸名牛尾氏が仁戸名の「さくの内」という妙見寺(千葉神社)の所領を押領した”という千学集の記事は、おおいに気になるところです。(写真yygucci氏撮影)

 作山とへたの台との間の谷底から、再びへたの台の先端部、へたの台貝塚へ向かいます。

3.へたの台貝塚へすすむモ

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