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東寺山谷地周辺をたずねて 千葉市若葉区東寺山の谷地は、周辺に重要遺跡を数多く擁しています。とくに千葉市における水稲農耕とそれにともなう集落の形成・発展を考えるうえで、たいへん注目される谷地です。縄文時代の大貝塚もありますが、今回は弥生時代以降の遺跡にねらいをさだめて歩きました。 ・石神遺跡など:千葉市では数少ない弥生時代の集落跡が東寺山谷地周辺に集まっています。 ・東寺山古墳群:海上国の特徴である石枕と立花が出土しています。海上国とは、『古事記』(!)にもその存在が示唆されている東国の巨大勢力です。その拠点がこの地にあった!! ・浅間城址、浜道館址、原城址など:東寺山の谷地周辺は市内でも有数の城郭密集地です。 ● 貝塚については「千葉市の貝塚」へ |
(コース)
東寺山バス停わき・メンズプラザアオキ裏(集合場所、江戸谷)→浅間城址(浅間遺跡)・浅間貝塚→浜道館址(元屋敷)・浜道古墳群→浜道古墳群→石神古墳群跡・石神遺跡→石神下の谷津田(東寺山谷地)→[京葉道路下をくぐりぬける]→原町南崎・舌田(東寺山谷地)→原町原城址(原町殿山遺跡)→水神石柱・登渡神社御斎田(原町舌田)→石神下の谷津田→疣霊神(国際交流グリーンハウス前・迎田)→東寺山バス停わき(集合場所)・解散 ※緑色は小字名・旧地名
(アクセス)
JR千葉駅より千葉内陸バス「みつわ台車庫行き」乗車、約10分。「東寺山」バス停で下車。
※ 東寺山の台地上には、、浜道古墳群、石神古墳群、戸張作古墳群(海老遺跡内の古墳群をふくむ)など、いくつかの古墳が小グループ(支群)を構成する形で、存在しています。これら全体が「東寺山古墳群」です。
大朝廷和の東国進出以前には、いまの千葉県市原市から茨城県南部におよぶ一帯を勢力下におく海上(うなかみ)国があったと、いわれています(『古事記』で出雲国造と同じくタケヒラトリノミコトの子孫とされている勢力)。石枕と立花は、その海上国の特徴と考えられる遺物なのです。石神二号墳以外、千葉国造の推定領域内ではほかに発見例はありません(上赤塚一号墳は菊間国造の勢力範囲内と考えられる)。ということは、ここが千葉の中心だった!!!
石神遺跡東端、京葉道路側道わきから、南方向対岸の高品台地、高品城址を見る。
写真右上の巨大マンションのそびえるところが高品城の中心部分、本郭。手前をJR成田線・総武本線が走ります。高品城の向こう側には、城域に接するように、千葉と臼井・佐倉方面をむすぶ古街道「北年貢道」(現在の主要地方道県道千葉・臼井印西線にほぼ重なる)が通っています。
高品城は、千葉氏の直臣安藤氏在番の城であり、戦国時代、佐倉に本拠を移した千葉氏の重要拠点として機能しました。なお高品城址にも弥生時代の住居址がみつかっています。
石神遺跡東端から南西方向に東寺山谷地をながめる。
写真右側の台地が東寺山台地。ずっと向こうの台地の南西端(浅間城址、浜道館跡)から歩いてきました。左端にわずかに高品台地も見えます。みつわ台5丁目と都賀の台2丁目の境付近、紅嶽弁天に源を発する葭川東支流が、写真の左手前から中央奥へと流れます。
石神遺跡直下の、この谷津田から古墳時代の完形の土師器が出土しているそうです。地下深くに古墳時代・弥生時代の水田址が存在する可能性があります。というこは、この谷津田は2000年近い歴史がある?それが今なお営まれている、すごいことです。しかしご覧のとおり、市街化の波はすぐそこまで・・・
写真前方の台地がめざす原城址(原町殿山遺跡)。殿様は、あそこから、谷津田を見守っていたんでしょうか?サボらないよう、にらみをきかしていた?
台地上は、畑がひろがるほか、墓地、草地、山林ばかりで、のどかな空間です。一見、城跡には見えませんが、竹藪の中に土塁の痕跡がのこっています。そのほか縄文・奈良平安時代の遺跡があります。樹木の生い茂っていない季節には、周囲の谷地を一望できるでしょう。 千葉氏の一門であり、有力家臣であった原氏の名字は、この地に由来するという説があります。15世紀、原氏が「原村」に所領をもっていたことはたしかなことのようです。
原集落の通路は、完全に十字に交わる交差点が意図的に避けられているようで、迷路のような感じをうけます。中世の根古屋集落にみられる特徴だそうです。北年貢道(県道千葉臼井印西線)付近は、「大堀込」という小字名がのこっており、土塁状の地形も見られます。
画像提供、yygucciさん
(参考資料)
(主要参考文献)
麻生優・鈴木道之介編『房総の古代史をさぐる』 築地書房1992年
石井進「たたみなす風景5 中世荘園考 下総国寺山郷」『みすず』396号20-28頁。
千葉県文化財センター『千葉県埋蔵文化財分布地図』 1985年
千葉県文化財保護協会『房総のあけぼのII 古墳と古代の寺々』1985年
千葉市『千葉市史 資料編1 原始古代中世』1976年
千葉市『千葉市史 8巻』
千葉市教育委員会文化課『千葉市史跡整備基本計画』1985年
沼沢豊編『東寺山石神遺跡』千葉県文化財センター 1977年
日暮晃一『知波之郷 No.1 -東寺山の遺跡を訪ねて-』千葉市の遺跡を歩く会 2000年
森田保編『千葉県の不思議事典』新人物往来社1992年114-116頁。
(おことわり)
・以上の遺跡のほとんどは発掘調査はなされていません。 ・遺跡の名称は、小字名による、という原則がありますが、遺跡についての見解の相違のほか、旧字名はかならずしも明確でなく、境界もはっきりしないため、文献や研究者により、同一地点の遺跡でも名称がことなっていることがあります。たとえば台地北西の縁の浜道古墳群は、浅間古墳群、蓮台場古墳群、石神古墳群(第三支群)とされている場合があります。 ・原町殿山遺跡は、千葉市教育委員会文化課『千葉市史跡整備基本計画』にしたがい原城址と呼んでいます。 |