2000年5月21日

10:00−12:00

弥生時代以来、人々の生活を支えつづけてきた谷津田

(向こうにみえる台地全体が高品城です。左のマンションの場所に主郭がありました。この画像は北側からみた高品城の遠景ということになります。)

(写真提供yygucciさん)

        

 東寺山谷地周辺をたずねて

 千葉市若葉区東寺山の谷地は、周辺に重要遺跡を数多く擁しています。とくに千葉市における水稲農耕とそれにともなう集落の形成・発展を考えるうえで、たいへん注目される谷地です。縄文時代の大貝塚もありますが、今回は弥生時代以降の遺跡にねらいをさだめて歩きました。

石神遺跡など:千葉市では数少ない弥生時代の集落跡が東寺山谷地周辺に集まっています。

東寺山古墳群海上国の特徴である石枕立花が出土しています。海上国とは、『古事記』(!)にもその存在が示唆されている東国の巨大勢力です。その拠点がこの地にあった!!

浅間城址浜道館址原城址など:東寺山の谷地周辺は市内でも有数の城郭密集地です。

  ● 東寺山町周辺地図(マピオン)

 ● 東寺山町遺跡分布図(南側のみ)

  ● 年表--千葉荘寺山郷と中世の動乱

   貝塚については千葉市の貝塚」へ

(コース)

東寺山バス停わき・メンズプラザアオキ裏(集合場所、江戸谷)→浅間城址(浅間遺跡)・浅間貝塚→浜道館址(元屋敷)・浜道古墳群→浜道古墳群石神古墳群跡・石神遺跡→石神下の谷津田(東寺山谷地)→[京葉道路下をくぐりぬける]→原町南崎舌田(東寺山谷地)→原町原城址(原町殿山遺跡)→水神石柱・登渡神社御斎田(原町舌田)→石神下の谷津田→疣霊神(国際交流グリーンハウス前・迎田)→東寺山バス停わき(集合場所)・解散           ※緑色は小字名・旧地名

(アクセス)

JR千葉駅より千葉内陸バス「みつわ台車庫行き」乗車、約10分。「東寺山」バス停で下車。

 ※ 東寺山の台地上には、、浜道古墳群、石神古墳群、戸張作古墳群(海老遺跡内の古墳群をふくむ)など、いくつかの古墳が小グループ(支群)を構成する形で、存在しています。これら全体が「東寺山古墳群」です。

 東寺山の台地南西端すぐ下にある「東寺山」バス停から、メンズプラザアオキうらをへて台地上へ・・・坂道をのぼりはじめると、もうここは浅間(せんげん)城址(浅間遺跡)です。ご覧のとおり、住宅地になっているところもあります。
 
●マップ
 坂道を上る途中、浅間城址の腰曲輪(こしぐるわ)と思われる地形があります。写真のガードレールの下です。腰曲輪とは、城の防衛のため、斜面を削って作られた平場です。ここから下にいる敵に攻撃を加えます。
 平坦な台地の上では、ところどころに土塁や空堀や段差で区画された(くるわ)の存在がうかがえます。写真、建物の奥の方には土塁を思わせる土盛り。その向こうは一段低くなっており、台地の北縁にそって土塁状の地形がまわっています。写真手前の空間の右側は、空堀で区画されています。
 この地点を少し戻ったところには、貝層が露出しているところがあります(浅間貝塚)。会員が発見した貝塚です(^_^)日暮晃一さんによれば、中・近世の貝塚で、浅間城にともなう貝塚である可能性が高いが、断定はできない、とのことです。
 付近にはかつて妙見社があったという報告があります。浅間城の主は千葉氏系の人物であった可能性が高いでしょう。
 自然地形の谷を利用した空堀(からぼり)。「したどうし」(下通し?)と地元の人がよぶ細い谷に通じています。一般に空堀が通路を兼ねることはまれではありません。
 台地南側の鬱蒼とした林の中に分け入ると、四方を土塁で囲まれた一画があります。浜道館址です。写真ではわかりにくいですが、よく残っています。出入口は「くいちがい」になっています。南東側の急斜面には平場がつくられているところがあります。浜道館の腰曲輪でしょうか?
 また浜道館のすぐそばに古墳が3基あります(浜道古墳群)。塚など城郭関連の遺構である可能性もあります。地元の人にきいたところでは、このあたりは、今も「元屋敷」という名で呼ばれており、「昔、殿様がいたところ」と言い伝えられているそうです。「亥鼻城の殿様と云々」という話も。
 少し離れたところには、カナクソ(製鉄の滓)が出土する場所があります。そこで草刈りをすると鎌の刃がすぐダメになってしまうそうです。製鉄遺構の存在がうかがわれます。浅間城関連の施設かもしれません。
 さらに台地上の道をすすみ、北側の林の中に分け入ると、古墳が3基あります(1基は未確認)。写真はそのうちの1基、浜道古墳群第三号墳。塚部は直径8mほどで一見、円墳にみえますが、周囲は最近削られたようで、前方後円墳の可能性もあります。いつ頃のものかは不明です。  細い谷、「したどうし」をはさんだすぐ目の前の対岸の台地南西端も遺跡であり、古墳が密集していました。戸張作(とばりさく)古墳群です。それらは6世紀後半から7世紀の古墳で、銀象嵌(ぞうがん)を施した鍔(つば)をもつ直刀を出土しています。大和朝廷から賜与されたものでしょうか?同じ東寺山古墳群の中で、わずかな距離ですが、墓域の違いは、いろいろなことを想像させます。
 台地東の縁辺付近にあたるところ、現在京葉道路が通って切通しになっている箇所に石神(いしがみ)古墳群(第二支群)がありました。そのひとつ、石神二号墳(5世紀中頃の円墳)では、発掘調査で驚くべき発見がありました。石枕立花(りっか)が、しかも二つも出土したのです。 

 大朝廷和の東国進出以前には、いまの千葉県市原市から茨城県南部におよぶ一帯を勢力下におく海上(うなかみ)国があったと、いわれています(『古事記』で出雲国造と同じくタケヒラトリノミコトの子孫とされている勢力)。石枕と立花は、その海上国の特徴と考えられる遺物なのです。石神二号墳以外、千葉国造の推定領域内ではほかに発見例はありません(上赤塚一号墳は菊間国造の勢力範囲内と考えられる)。ということは、ここが千葉の中心だった!!!

 京葉道路沿いに広がる畑のあたりが石神遺跡です。縄文早期(約9000年前)、弥生後期、古墳、奈良平安時代などの複合遺跡です。東寺山谷地周辺は、千葉市では数少ない弥生時代の遺跡が分布していますが、石神遺跡はそのひとつです。  今回は残念ながら、よくわかりませんでしたが、ここは、条件さえよければ、地表に現れた住居址や古墳の周溝の跡(ソイルマーク)を肉眼で観察できる場所です。雨のやんだしばらく後がわかりやすいようです。
 

 石神遺跡東端、京葉道路側道わきから、南方向対岸の高品台地高品城址を見る。 

 写真右上の巨大マンションのそびえるところが高品城の中心部分、本郭。手前をJR成田線・総武本線が走ります。高品城の向こう側には、城域に接するように、千葉と臼井・佐倉方面をむすぶ古街道「北年貢道」(現在の主要地方道県道千葉・臼井印西線にほぼ重なる)が通っています。 

 高品城は、千葉氏の直臣安藤氏在番の城であり、戦国時代、佐倉に本拠を移した千葉氏の重要拠点として機能しました。なお高品城址にも弥生時代の住居址がみつかっています。

 石神遺跡東端から南西方向に東寺山谷地をながめる。

 写真右側の台地が東寺山台地。ずっと向こうの台地の南西端(浅間城址、浜道館跡)から歩いてきました。左端にわずかに高品台地も見えます。みつわ台5丁目と都賀の台2丁目の境付近、紅嶽弁天に源を発する葭川東支流が、写真の左手前から中央奥へと流れます。 

 石神遺跡直下の、この谷津田から古墳時代の完形の土師器が出土しているそうです。地下深くに古墳時代・弥生時代の水田址が存在する可能性があります。というこは、この谷津田は2000年近い歴史がある?それが今なお営まれている、すごいことです。しかしご覧のとおり、市街化の波はすぐそこまで・・・

 石神遺跡から東寺山の谷地(廿五里[つうへいじ]支谷)に降り、京葉道路の下をくぐって、北へ向かうと、さらに田園風景がひろがります(原町南崎・舌田)。以前より減ったとはいえ、谷津田もちゃんと耕作されています。この景観はすばらしい。弥生時代(縄文時代?)から、それほど変わっていないのではないでしょうか? 

 写真前方の台地がめざす原城址(原町殿山遺跡)。殿様は、あそこから、谷津田を見守っていたんでしょうか?サボらないよう、にらみをきかしていた?

 原城址。小字名は「殿山」。原町の台地は?マークのような地形をして谷地につき出ていますが、原城址はその先端にあたり、周囲を急斜面と谷津田に囲まれた要害の地です。谷津田との比高差約20m。腰曲輪らしき地形も残っています。 

 台地上は、畑がひろがるほか、墓地、草地、山林ばかりで、のどかな空間です。一見、城跡には見えませんが、竹藪の中に土塁の痕跡がのこっています。そのほか縄文・奈良平安時代の遺跡があります。樹木の生い茂っていない季節には、周囲の谷地を一望できるでしょう。 千葉氏の一門であり、有力家臣であった原氏の名字は、この地に由来するという説があります。15世紀、原氏が「原村」に所領をもっていたことはたしかなことのようです。

 写真右に民家の屋根がみえます。原城の主は、平時には、この低いところで生活していたと考えられます。いわゆる根古屋(ねごや)です。この場所は台地の(おそらく人為的につくられた)急斜面で囲まれています。渡辺太助さんによれば、写真中央左の樹木が茂っているあたり、天然ガス採取施設付近には、戦国時代の五輪塔が2基あったそうです。抜け穴伝説も?しかしこれは嘘でしょう、とのこと。さらにその向こうには正福寺というお寺があります。根古屋から見て、鬼門の方角にあたります。
 写真右側は、原城址北縁の切岸状の急斜面。これを降りるのも、よじのぼるのも至難のわざ。そのわきに、台地上の原城址から下の根古屋・谷部に降りる通路が通ります。左手には根古屋。 

 原集落の通路は、完全に十字に交わる交差点が意図的に避けられているようで、迷路のような感じをうけます。中世の根古屋集落にみられる特徴だそうです。北年貢道(県道千葉臼井印西線)付近は、「大堀込」という小字名がのこっており、土塁状の地形も見られます。

 写真は、水神をお祭りする石柱。原集落から谷津田(舌田)の方へ向かう途中にありました。原町は、ゆっくり散歩したいところです。
 原城址東下の谷地(舌田)の熊野三社大神・登渡神社の御斎田。  このたんぼも、2000年くらいの歴史をもっているかもしれません。ホントに。
 再び、石神遺跡下のたんぼ。

画像提供、yygucciさん

(参考資料)

● 年表--千葉荘寺山郷と関東の動乱

(主要参考文献)

麻生優・鈴木道之介編『房総の古代史をさぐる』 築地書房1992年

石井進「たたみなす風景5 中世荘園考 下総国寺山郷」『みすず』396号20-28頁。

千葉県文化財センター『千葉県埋蔵文化財分布地図』 1985年

千葉県文化財保護協会『房総のあけぼのII 古墳と古代の寺々』1985年

千葉市『千葉市史 資料編1 原始古代中世』1976年

千葉市『千葉市史 8巻』

千葉市教育委員会文化課『千葉市史跡整備基本計画』1985年

沼沢豊編『東寺山石神遺跡』千葉県文化財センター 1977年

日暮晃一『知波之郷 No.1 -東寺山の遺跡を訪ねて-』千葉市の遺跡を歩く会 2000年

森田保編『千葉県の不思議事典』新人物往来社1992年114-116頁。

 
(おことわり) 

・以上の遺跡のほとんどは発掘調査はなされていません。

・遺跡の名称は、小字名による、という原則がありますが、遺跡についての見解の相違のほか、旧字名はかならずしも明確でなく、境界もはっきりしないため、文献や研究者により、同一地点の遺跡でも名称がことなっていることがあります。たとえば台地北西の縁の浜道古墳群は、浅間古墳群、蓮台場古墳群、石神古墳群(第三支群)とされている場合があります。

・原町殿山遺跡は、千葉市教育委員会文化課『千葉市史跡整備基本計画』にしたがい原城址と呼んでいます。 

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