10月の遺跡めぐり 

おゆみ探訪 ---戦国動乱の古城址を歩く

 南生実城(伝小弓城・小弓御所)遠景。  (景観については、1.南生実城を遠望するへ

【日 時】 2000年10月8日(日)10:00-12:00
【集合場所】千葉市埋蔵文化財調査センター入口前   地図→
(センター住所)
   千葉市中央区南生実町1210番地  TEL 043-266-5433

 ■「京成千葉」駅より京成千原線「ちはら台」行きに乗車(7分)。
   「学園前」駅下車、徒歩約10〜20分。
   * 改札を出て左、明徳学園内を通りぬけるのが、近道です。

 ■JR千葉駅前より小湊バス「椎名落井」行きに乗車(22分)
   「生実新田」下車、徒歩10分

 ■京葉道路蘇我インターより自動車で10分。

 ※ センター内の展示室は9:00から見学できます(駐車場あり)。

 
【コース】 
千葉市埋蔵文化財調査センター→南生実城(通説のいう小弓城・小弓公方御座所)→八剣神社→南生実城「古城」(主郭)→大覚寺山古墳→七廻塚古墳跡→長山砦跡→蓮池跡→生実城・加藤郭→町並→生実池・重俊院→生実神社・空堀
蘇我(北西) 国土地理院 1/25000地図 
        北生実城:北緯35度34分1秒,東経140度8分42秒  南生実城:北緯35度33分16秒,東経140度9分3秒

■宇宙からみる城郭群 −千葉市南部−
 ←「原」の旗印のところが北生実城(生実城)。
■空撮 南生実城(小弓城)・森台貝塚 (1974年)
  
■空撮 臼井城 惣構え(1974年)
 ←1570年頃、原氏は本拠を生実から臼井城に移動した ●年表
 上総との国境を間近に臨む水陸交通の要衝の地、生実は、古くから政治的に重要な地域だったようです(湊(みなと)の城、浜野城)。市内最大の古墳、大覚寺山古墳や村田川流域最大の円墳、七廻塚古墳(跡)等の存在はそれを物語っています。江戸時代には千葉市内唯一の大名、森川家の陣屋がおかれました。
 生実の地が歴史の表舞台で最も脚光をあびたのは戦国時代でしょう。生実に拠り、主家千葉氏を圧倒する実力をつけた氏。原氏と抗争を繰り返し、ついに生実を攻略した上総真里谷(木更津市)の武田氏。武田氏に招かれ、生実を本拠にして、関東の覇権をうかがうにまでその勢力を急成長させた小弓公方、足利義明国府台の合戦(1538年)で義明の野望をくじき、房総に侵攻する北条氏。北条氏に抗し北進する安房の里見氏-----生実をめぐり激しい攻防が幾度となく繰り広げられ、その結果はときに広く関東全体の政治情勢に影響を与えました。

 現在、この地にはふたつの「おゆみ城」の跡が知られています。「原氏の旧居城小弓城、義明の小弓御所は、南生実にあり、義明滅亡後、北条氏の援助で生実を奪回した原氏が新たに北生実に生実城を築いた」、とするのが従来の通説ですが、最近の発掘調査の結果を踏まえてこの通説を覆す新たな見解が提出されています(便宜上、ここでは南生実の城(従来、小弓城といわれてきた城)を「南生実城」と呼びます。)。はたして小弓城、小弓御所、生実城はどこか?「兵どもが夢の跡」を歩いてみましょう。

 千葉市埋蔵文化財調査センターの前に集合。当日飛び入り参加の方もあり、何と62人の参加者がありました。予想以上の大盛況でした。この地域への関心の高さがうかがわれます。

 まず中世を中心とする生実・南生実地域の歴史的背景の説明がありました。

 センターの南側の裏へ進みます。南生実城の大土塁と空堀、土橋が残っています。写真左側が大土塁です。現状では、必ずしもはっきりしませんが、虎口(城の出入り口)を構成していた可能性があります。空堀は大規模なもので(巾およそ50m?)、屈曲があります。小弓公方足利義明の活動した時代より新しい時代の城の特徴であり、この点からも従来の通説に疑問が出されています。
 センター裏の南生実の台地に上がりました。もと妙見宮のあった場所(現在民家)を通り過ぎ、台地上を南に向かうと、低い地形のところに出ます。主郭の北と東をまわる空堀跡の北部分です。現状から見ると、たいへん巾が広く50〜20mくらいありそうです。また深さもかなりあった(6,7m?)ようです。戦後、埋められて、浅くなっており、堀底部分は道路や民家の敷地になっていますので、空堀といわれないと、なかなか気がつきません。この空堀にも屈曲があります。
 台地中央部南端の八剣(やつるぎ)神社に出ました。ヤマトタケルを祭る、生実の総鎮守です。「その昔、東征のためやってきたヤマトタケルがこの地に休息し、争っていた夷族(えびす)どもを諭して、村田川を国境と定め、平和が訪れた」、という興味深い伝説があります。創建はかなり古そうで、1538年(国府台合戦=小弓公方滅亡の年)に御輿が作った、という記録が残ります。ここもかつて空堀がまわっており、南生実城の一郭を構成していたと考えられます。
 八剣神社の東北部分をまわる空堀の跡です。そこは土の状態がちがい、比較的最近、埋め立てられたことがわかります。
 同じく空堀跡。竹藪になっています。斜め下を覗いている写真です。台地の縁の方は、埋め立てられておらず、空堀の跡であることがはっきりわかります。深さは、5,6mはあるでしょうか?
 台地、東南の字「古城(こじょう)」です。南生実城の主郭(中心部分)にあたります。現在、墓地になっていますが、天正年間(1573-92年)、原胤栄が一族の慰霊のため、ここに広照寺を建立したと言われています(広照寺の現在地は台地南の低地)。従来の通説に則った「小弓城跡」の説明板があります。
 この古城は、かつては、上総方面への眺望がたいへんよく開けたところだったと思われます。現在も、樹木の間から、浜野から村田方面がよく見え、当時の眺望のよさがかがえます。 
 写真は、晴れた日の古城からの眺望。浜野・村田町方面。村田川の向こうは、市原市すなわち上総国。上総方面から攻めてくる敵の様子も手にとるようにわかったでしょう。この地の軍事的な重要性がわかります。
 古城の墓地には、現代〜江戸時代の墓石にまじって、戦国時代のものと思われる五輪塔の残欠も置かれています。地元の方のご先祖のものでしょうが、この点からも南生実の集落がたいへん古い歴史をもっていることがわかります。
 移動途中に土塁の残欠がありました。ところでこの日(10月8日)は、国府台の合戦のあった日=小弓公方足利義明が戦死した日(7日)の翌日にあたります。まったくの偶然ですが・・・ (^^;)
 通路をかねた堀である可能性があります。甲冑に身を固めた武者たちがここを行き来をしたのか?
 台地の西北付近には、土塁をそなえた民家も見られます(写真左上はその土塁)。
 南生実の台地(南生実城)を降りて、北に向かい、門前谷(もんぜんやつ)に出ました。大覚寺山古墳は千葉市内最大の前方後円墳です(5世紀初め、全長66m)。写真はその後円部。後円部の頂上はもとはもっと高かっただろう、中世に砦か何かとして使われて削られた可能性がある、ということでした。
 大覚寺山古墳は史跡として整備されており、墳丘の上に上ることができます。なかなかの見晴らしです。写真は後円部上から前方部を見た写真です。
 ここから西北西(写真左画面外)約600m、生浜東小学校の校庭にも、石釧や立花などを出土した七廻塚(ななめぐりづか)古墳という大きな円墳がありました。そのほかこの周辺には古墳がいくつも残っています。村田川の向こう川の菊間国造の墓域であったとも推測されます。
 七廻塚古墳跡を見て、北へ向かい、北生実(生実町)に入りました。北生実の台地の南西の一角、妙印寺跡、現在墓地になっているところは、「生実城」(北生実城)の城域の南西部分にあたります。「加藤郭」(または「徒歩(かち)郭」)と呼ばれたところです。ここも樹木がなければ、眺望がよいはずです。草刈堰建設に貢献した江戸時代初期の代官高室金兵衛の碑があります(写真左上)。
 加藤郭から台地上を北へ進むと、字「町並」。写真は、台地西下の本満寺の前から東へまっすぐ生実城の台地を通り、左に折れ、生実城の大手門へと至るメインストリートです。古い町並がよく残っています。大切な文化遺産です。千葉市緑区の土気酒井氏の戦国時代の居城、土気城にもこれとよく似た町並みが残っています(→土気城の町並み)。
 さらに北へ進むと大きな道路「浜野四街道長沼線」に達します。道路の向こう北側は、生実池と生実藩主森川家の菩提寺、重俊院。時間の関係で、立ち寄らずに、道路を東へ進行しました。道路の北側、ガソリンスタンドの西付近は「天神山」。写真の樹木があるところは空堀に伴う土塁の残欠です。土塁の向こう側に空堀の痕跡=一段低い地形があります。

 写真の道路を北(自転車の進行方向)へ進行すると、生実城の主郭「本城」に至ります。未調査のまま完全に削平され、住宅街(角栄団地)になっており、「本城公園」という名前だけが残っています。

 東へ進み、生実神社へ。生実神社はもとは御霊神社といいました。千葉氏と関係のある神社で、戦国時代末期に成立した『千学集』は、御霊神社について、佐倉のほかに「小弓にも立てられける」と記しています。原氏の創建と推定されます。江戸時代には西隣に陣屋を置いた生実藩主森川氏の崇敬を得ました。

 ちょうど祭礼の日にあたりました。さすがに歴史のある町らしく、町の文化遺産を大切にしておられる様子がうかがえます。町内のみなさんの活動もさかんなようです。この日の夕方にはみなさんが演劇を上演するとのことでした。

 生実神社は生実城の一郭をなしています。西側には空堀がよく残っています(写真左)。破壊された部分が少なくない生実城の遺構としては貴重なところです。現在でもかなり深いですが、これでも埋められて浅くなったそうです。地元の参加者の方によると、その方が子供の頃でも、ゆうに11,2mはあったということです。このような大規模な堀は、鉄砲が使用されるようになった時代の堀です。
 生実周辺には貴重な史跡や文化財がまだまだたくさんあります。本日は、限られた時間の中で、そのほんの一部しかまわれませんでした。これを機会に、みなさんに生実周辺の遺跡散歩をしていただければ、と思います。

 案内をしてくださった先生、写真を提供してくださった「たかしpart3」さん、yygucciさん、ご支援くださった方々に感謝する次第です。

以下のサイトもご覧ください。
「南生実町内会」 「南生実町内会 公式ホームページを目指すページ」。町内会でホームページをもとうとするとは、さすが。「郷土史散策」のページに丁寧な歴史の説明があります。
「千葉市の貝塚」  今回の遺跡めぐりでは十分触れる時間がありませんでしたが、生実周辺には、縄文時代の重要な遺跡も少なくありません。大型環状(馬蹄形)貝塚である森台貝塚、低湿地遺跡、浜野川神門貝塚など縄文遺跡について説明があります。
「たかしPart3のページ」  「関東 歴史発見の旅」のページ。小弓公方の支援者であった上総武田氏の本拠、真里谷城、椎津城、その敵、原氏側にたった千葉宗家の本佐倉城、後に原氏が生実から本拠を移すことになる臼井城、小弓公方が敗死した国府台古戦場、国府台城なども紹介されており、生実が置かれた歴史的背景を知ることができます。

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