遺跡めぐり
  2002年1月27日(日)    

みつわ台周辺を歩く

― 1.東寺山貝塚と廿五里支谷 ―

 

東対岸の北年貢道・根崎遺跡側から見た東寺山台地

 千葉市若葉区みつわ台の台地(東寺山台地)は、葭川(よしかわ)の一支流の流れる廿五里(つうへいじ)支谷に面しており、貝塚町貝塚群に次ぐ縄文大貝塚の密集地です。

 またこの付近一帯は、千葉市内屈指の中世城郭の密集地でもあります。廿五里支谷の東対岸には佐倉と千葉を結ぶ当時の主要街道(北年貢道)が通っており、小弓公方や里見など安房・上総勢の侵攻を押さえるための重要な地域であったと推測されます。

 

 ■コース(09:30-12:00

  千葉都市モノレールみつわ台駅(集合)→大塚古墳(駅前)→東寺山貝塚(みつわ台第一公園)→東寺山南貝塚→(稲毛台遺跡)→廿五里支谷→廿五里城跡(土塁)→廿五里南貝塚廿五里北貝塚廿五里南貝塚・廿五里城跡(殿山ガーデン)→(昼食)→神谷窯見学(神谷紀雄先生)→解散

千葉市における大型貝塚分布図 (みつわ台周辺地図)

 千葉都市モノレールみつわ台駅改札口前集合。地図を使って、千葉市若葉区みつわ台周辺の遺跡の全体的な説明をしているところです。
 大塚古墳。みつわ台駅のまん前にあります(旧東寺山町字西前原)。

 これほど大きい古墳は千葉市の北側では他にないようです。崩れたせいか、見た目には円墳に見えますが、方墳ということです。

 周辺は大開発がなされ住宅街となっていますが、ここだけ保存されています。

 東寺山貝塚。縄文中期〜後期を主体とする直径役130mの環状貝塚です。位置はみつわ台駅より南西400m、徒歩5分ほどのところ。標高は中央部で30m。東の支谷との標高差は18m。貝層の中央部分のみ、千葉県の史跡に指定され、みつわ台第一公園として保存されています(西側縁辺部には点在貝塚が伴っていたが、公園整備により未調査のまま削平された)。盛り土がなされているため貝層の全体の分布はわかりにくいですが、ところどころで貝殻や土器片が見られます。小雨が降りだしましたので、傘をさしての見学です。
  東寺山貝塚の南の縁は、比較的よく貝殻がよく見え、貝層の存在をうかがえます。千葉市教育委員会設置の説明板もここに設置されています。

 東寺山貝塚からは、鯨の脊椎骨がみつかっています。右の写真は、打ち上げられた鯨を各集落で部分を分けて取ったのだろう、と説明しているところです。

 

 左の写真は東寺山貝塚から出土した鯨の脊椎骨(加曾利貝塚博物館展示)です。 
 東寺山貝塚で、もっとも貝層を観察しやすいところは鹿島神社のわきです。縄文中期・後期を主体とする貝塚ですが、縄文前期の土器片もあるようです。ハイガイも落ちていました。
  東寺山貝塚から古道「原往還」を東に向かい廿五里(つうへいじ)支谷に下ります。ひょっとすると、縄文人が谷に下りるのにも、この道を使ったかもしれません。写真右に入ったところにも貝殻散布が見られます。地元参加者のお一人によれば、以前にはこのあたりの畑にも土器片が多く見られたとのことです(東寺山南貝塚と一体の遺跡でしょうか?)。

 写真左側は東寺山字本郷。旧集落の中心です。古い立派なお屋敷が並びます。

 廿五里支谷。開口部=葭川支流の下流の方向(南東=上の写真の右方向)を見ています。縄文人たちは葭川支流を使って海に出かけていたと考えられます。ここから縄文人たちは、出漁する家族友人たちの姿を見送っていたのかもしれませんね。

 またこの谷は、千葉市における水稲耕作発祥の地のひとつです。この支谷に面する台地縁辺には市内では数少ない弥生遺跡が分布しています。写真左から伸びている台地が南東対岸の原町の台地=原城跡。写真中央やや右向こうに高品町の台地=高品城(弥生時代の遺跡あり)の北端が見えます。

  廿五里支谷を北の水源方向に向かってさかのぼります。現在は、埋め立てられ、住宅地となっていますが、つい最近まで葭川支流がここに流れ、弥生時代以来の谷津田がありました。またここは15年ほど前には蛍の生息地として市民に紹介されていました。

 写真右の台地は東寺山貝塚のある台地の東対岸、原町の台地です。この台地上にも台畑遺跡、台畑遺跡などの縄文時代〜中世の遺跡が分布します。

 

 廿五里支谷、東寺山貝塚東側直下。縄文人たちの水場、船着場、どんぐりのさらし施設などが存在した可能性が強いでしょう。また縄文晩期には低地に住みはじめており、まだこのあたりで見つかっていない縄文晩期の遺跡が眠っている可能性があります。さらに東寺山貝塚のすぐ近くに古墳・奈良平安時代の集落跡が確認されていますから、それぞれの時代の水田遺構がこの地下に眠っている可能性が大です。

 写真前方台地上の縁50〜100mのところ(菜園・林および資材置場)に東寺山貝塚の東側の貝層が分布しています。道路をはさんでさらに西に貝層の中心=みつわ台第一公園がある、という位置関係になります。

大塚古墳全景 
東寺山貝塚西側
鹿島神社

原往還より見た廿五里支谷北側 (原町土地区画整理事業地)

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補足

 

消えた遺跡 「稲城台遺跡」 (みつわ台1丁目)
 字稲城台(いなぎだい)は稲毛台とも表記。千葉市若葉区みつわ台1丁目、みつわ台小学校の南西付近。すでに地形は完全に削平されており、原地形をうかがうことはできませんが、開発前は台地縁辺が人為的に直線状に整形されていたとのことです。字「稲城台」の地名は「稲置」(いなぎ)に由来すると見られます。稲置とは、大化改新(645年)前、国造(くにのみやつこ)の下で地方を支配していた県主(あがたぬし)に与えられた律令体制下の地方官庁名です。
 1968〜9年、日本住宅公団の開発にともない某私立大学による発掘が行われました。古墳時代から奈良平安時代にかけての集落跡であり、大型の建物跡を中心に環状に住居址が密集していたといいます。また製鉄遺構などのほか、きわめて重要な結果をえた模様です。ところが調査責任者は途中で発掘を放棄。遺跡の約半分が未調査のままブルドーザーで削平されました。なされた調査の結果も30年を経過した現在にいたるまで報告されていません。同一台地上に弥生時代(戸張作遺跡、石神遺跡、渡戸台遺跡など)、古墳時代(石神(←古事記!にも記載がある海上国との関連が論じられる遺跡)、戸張作などの東寺山古墳群、大塚古墳、海老遺跡など)をへて奈良平安時代にいたる遺跡が連綿と続いており、それらとの関連からしても、たいへん重要な遺跡でしたが、歴史の闇の中に消されてしまったということでしょうか。(以上、千葉市『千葉市史』260-1頁(後藤和民氏執筆)および発掘を実際に見学した者からの聞き取りによる。)

 

 

 

(参考サイト)

園生貝塚研究会 on web 「貝塚を訪ねて」のページに東寺山貝塚と廿五里北貝塚が取り上げられている。廿五里城についても北前原城と一連の城である可能性を指摘しており、注目される。

 

 

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▼2.廿五里南北貝塚と廿五里城

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