遺跡めぐり
  2001年10月14日(日)

 

有吉南・北貝塚と縄文人の暮らし

 

広大な範囲が開発され、数多くの遺跡が発掘調査されたいわゆるおゆみ野の代表的な縄文貝塚を歩き、その調査研究にあたっている千葉県文化財センター千葉事務所を見学させてもらいました。

 

 ■コース(歩行時間:約50分)

  JR鎌取駅前(集合)→有吉北貝塚(第二公園)→有吉南貝塚(有吉貝塚公園)→おゆみの道→泉谷公園→泉谷池→六通遺跡→六通貝塚→夏の道→第一公園→千葉県文化財センター千葉事務所(見学後解散)

 

1/25,000地形図:蘇我(北西) 国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定をよんでから見ましょう。鎌取駅南西約500mの緑地が有吉北貝塚。その南に有吉南貝塚がある。

 鎌取駅改札口集合。モダンなビルが立ち並び、もうすっかり大都会然とした鎌取駅前から歩いて10分足らずのところに、有吉北貝塚と有吉南貝塚があります。
有吉北貝塚

 (第二公園)

 

 有吉北貝塚(有吉町字日照田)。足元は貝殻だらけ。
 有吉北貝塚は、東京湾沿岸で、ほぼ全域が発掘調査された唯一の縄文中期の拠点集落・貝塚として重要です。環状に並ぶ点列貝塚ですが、未調査の北側の貝層の一部は、このように第二公園として保存されてます。
 公園内では、貝殻が落ちていないところでも、気をつけてみると、土器片が落ちています。
 第二公園から有吉北貝塚へ向かおうとするところ。残っている貝層は写真右側の樹木の生えた斜面にあります。この芝生の下にも、住居址や貯蔵穴が多数眠っているにちがいありません。公園内は公園整備のために盛土がなされているようです。
 南東側から見た第二公園(前方の丘=有吉北貝塚残存部分)と有吉中学敷地。下見のとき、撮影した写真です。有吉北貝塚の大部分は、調査後、削り取られて、遊歩道、有吉中学の敷地、住宅地になっています。今の第二公園の北西付近には、たいへん水量の豊富な湧水があったとのことですが、自然地形とともに消え去りました。開発による地形改変がはなはだしく、現況から当時の地形・自然環境をうかがうことは不可能です。残念・・・
 有吉南貝塚と陸橋。

 もともと有吉北貝塚と細い尾根で結ばれていましたが、開発により道路で分断され、陸橋でつながっています。

 前方の丘全体が有吉南貝塚です。有吉貝塚公園として整備が進められていますが、貝層のすぐ外側は削られてしまっています。史跡整備としては減点です。樹木のあるところが日枝神社。環状に並ぶ貝層のうちの北側の貝層があります。
 
有吉南貝塚

 (有吉貝塚公園)

 

 日枝神社付近の地面は貝殻だらけ。何か、ありました?

 有吉南貝塚は、有吉北貝塚にやや遅れるが、ほぼ同じ時期につくられた縄文中期の貝塚です。北貝塚から移ってきたグループにより作られたと考えられています。南貝塚の最終的な大きさは北貝塚よりも大きいのです。北貝塚と同じく斜面に貝殻が投棄されていますが、台地に集まってくる谷津に向かって投棄している点、北貝塚と違います。

 南貝塚の南側の貝層のあたりを眺めています。現在、公園整備のための工事が行われています。
 日枝神社前。有吉南貝塚はかつて「有吉貝塚」とも「宮前貝塚」とも呼ばれていました。

 南に進み、遊歩道、「おゆみの道」に入ります。

 
六通貝塚へ
 「おゆみの道」を東に進みます。おゆみの道は、谷底の小川に沿った遊歩道で、たいへん快適ですが、小川も谷地も現代の造成により人工的につくられたものです。本来の谷(いずみ谷津)は、おゆみの道と同じく、生実町と椎名崎町との間、大百池付近から、東から西へと向かい、泉谷公園を最奥部としていましたが、その位置は現在の「おゆみの道」よりも南でした。泉谷小学校、泉谷中学校はその本来の谷地(いずみ谷津)を埋めて建てられたのです。

 泉谷公園に着きました。その名のとおり、湧水があり、池があります。江戸時代、この水をめぐって争いが起きているくらい、重要な水源でした。現在は、泉谷公園は、蛍を養殖していることで有名なところですね。この公園は自然地形をそのまま残しています。なお泉谷は本来「いずみやつ」です。
 谷地である泉谷公園から東南側に上ると、六通(ろくつう)の集落に出ます。標高約40〜43m。ここにもうひとつの大型環状貝塚、六通貝塚があります。

 写真はほぼ北を見ていますが、写真前方の電柱〜共同住宅付近が貝層の北縁になるようです。中央の道路がちょうど六通貝塚の真中を貫通しています。貝層は東西約140m。南北約125m。こちら(南)に向かって、開口をするような分布をしています。道路両側の畑ではおびただしい数の貝殻と土器片を目にすることができます。

 六通貝塚、東側の貝層の露出したところ。真っ白いのは貝殻です。おびただしい貝殻に圧倒されます。とにかく、すごい。

 六通貝塚はいずみ谷津の最奥部(泉谷公園東南)に位置します。規模は加曽利南貝塚よりも大きいとも見られています。村田川流域北岸の貝塚では唯一、中期から晩期まで存続しており、貝塚の消滅、縄文社会の消滅の原因を解明するのに資する、貴重な貝塚です。

 
千葉県文化財センター
 六通貝塚から北上。夏の道を通り、第一公園をへて、最終目的地「千葉県文化財センター千葉事務所」に到着です。お疲れ様でした。

 しかし本日のメインイベントはこれからなのです(^^)

 専門の先生より、まず有吉南・北貝塚の周辺地形の模型、開発前の旧地形図、航空写真をつかって、説明がありました。

 海面が最も上昇した縄文前期(6000年くらい前)には、海は大百池付近まで入りこんでいただろうとのことです。有吉南・北貝塚の縄文人たちは、谷津に流れる川を丸木舟で約1km下り、漁をしていたようです。その他、縄文人の暮らしについて、興味深いお話をしていただきました。ここでは紹介しきれませんので、「千葉市の貝塚」をご覧下さい。

 有吉南貝塚から出土した人骨の写真。背の高いがっちりした体格の壮年男性の人骨で、イルカの骨製の立派な腰飾り(写真中、反射している光のすぐ右です)とイモガイ製の飾り(反射光の右端下の腕、この写真では識別は無理か・・・)を身に付けたまま葬られていました。頭には土器がかぶせられています。

 有吉北貝塚から分かれ南貝塚へ移住したグループのリーダーの人骨かもしれない、とのことでした。

 有吉北貝塚から出土した石器など手にとってみています。
 ここが貝塚研究の最前線の現場です。 何百何千という数の貝殻や骨の大きさをひとつひとつ計測するような、たいへん根気のいる地味な作業の積み重ねによって、縄文時代の謎が解明されつつあるのです。

 写真は貝塚で発掘された貝殻や動物の骨などの標本を熱心に眺めているところです。

 事務所の入り口のところにも、発掘調査で出土した貴重な遺物が陳列されています。このほかにも「おゆみ野」の大規模開発に伴い出土した貴重な遺物がゆうに博物館がひとつできるくらい数多く所蔵されているらしいです。大切に保管し、次の世代に伝えてもらいたいものです。

 講師の先生、どうもありがとうございました。 

 

 

(参考文献)

西野雅人ほか『千葉県文化財センター紀要19号』(貝塚出土資料の分析)1999年3月 千葉県文化財センター

『千葉市有吉北貝塚―千葉東南部ニュータウン19―』千葉県文化財センター

宮城孝之「六通貝塚貝層範囲確認調査」『研究連絡誌』第18号1986年12月千葉県文化財センター

森本和男「千葉東南部地区の遺跡群」『研究連絡誌』第58号2000年7月 千葉県文化財センター

※ 矢野さん、yygucciさん提供の写真を一部使わせていただきました。末筆ながら感謝の意を表します。

 

 

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