ただ今発掘中 ♪♪

調査員のみなさん、ご苦労さまです!

都町山王遺跡ー発掘現場訪問

ー中世の屋敷跡ー

2001年8月現在発掘中の千葉市中央区都町の山王遺跡の発掘現場におじゃましました。
 

 15世紀〜16世紀前半の屋敷跡だそうです。時期は多少ずれますが千葉氏の侍屋敷があったという場所(現在の都町、貝塚町、国道51号線沿い付近にほぼ該当)から近く、その意味でも注目される遺跡です。またこの屋敷跡の廃絶時期にあたる16世紀前半は、この地域の支配権に大きな変動があった時期ですので(小弓公方の出現!、安房里見氏の軍事行動!)、その点でも興味深い遺跡です。

 場所は、都町中通り(県知事公舎下から、小倉台へ向かう道)を小倉台に向かって左側、ガソリンスタンドの隣です。都小学校から北東200mほどのところに位置します。

 
 都町中通り歩道、東側(桜木町・小倉台側)から見た山王遺跡発掘現場。中央の台地上です。千葉氏の侍屋敷が立ち並んでいたという場所というのは、写真右に見える台地の右方向の向う側になります。

 撮影地点付近も遺跡で、石室のある古墳等が発掘されています。

 発掘調査前の状態。都町中通り、西南の方向から。発掘の半年ほど前に撮影。テラス状の地形がわかると思います。もともと道路にあたるところが谷底になっていたところを、中世に屋敷地として造成したようです。

 ちなみに屋敷跡と思われる似たような地形は、この付近では、都町の県知事公舎の近く(西の下、陣屋)、また貝塚台地(貝塚町字西井戸)にもあります。県知事公舎の近くの方は、屋敷跡というより、現に人が住んでおられます。屋敷の背にあたる台地上の縁には、土塁状の地形まわっています。貝塚町の方は、貝塚城跡の城域の範囲内です。いずれも、山王遺跡同様、千葉氏の侍屋敷の想定地のすぐ近くですから、おおいに興味をひきます。

 少し、退いた地点から撮影。左手前に見える隣は、ガソリンスタンドです。ガソリンスタンドのできる前は、似たようなテラス状の地形になっており、中世の屋敷跡でした。ガソリンスタンドをつくる際、発掘調査が行われ、土坑跡から鉄釜が出土しています。
 道路向かい(南)から撮影。現在の状況です。すでにテラス状の部分の屋敷跡の調査を終え、一段高い部分の溝状遺構等を調査しているようです。
 ぐるっと墓地の方から迂回して、台地の上に上がってみました。写真は、台地上の方(北側)からみた、発掘現場。手前中央、空堀ないし溝状の遺構の調査が行われています。その向う、重機が動いているところは、一段低くなって、平坦面のテラス状の地形がつくられています。そこには建物跡があったとのことです。遺物としては陶器片などが出ているようです。
 溝は、台地の上から下りています。発掘前の表面観察で、この溝の部分に沿って、土塁状の盛り上がりが認められたとのことです。しかし溝は、空堀というには小さいので、排水のための溝という意味が主で、防御のため空堀的な意味をかねていた、というところかもしれない、ということでした。溝に付随する土塁状の盛土は、台地の上まで続いています。
   写真、左がテラス状の平坦部分(屋敷地)。西を見てます。右の一段上は溝状の遺構のある傾斜面、台地上へと続きます。
  台地上の方向(北)を見る。溝状遺構は、台地上調査区域の西端から斜めに調査地を横断しながら、屋敷地の東側に下りてきます。画面外、左、台地上に近い緩やかな傾斜面に、テラス状の区画のとは別にもうひとつ建物跡があり、溝はそこを貫いています。
 台地上に近い傾斜面上の建物跡と溝状遺構。溝が建物跡を貫いている?これはどういうことか・・・・時期がちがうのでしょうか?調査区の西端です。
 

 台地上(発掘現場の北、西向きに撮影)、道路にそって残る土塁状の地形。溝に付随する土盛地形は、写真左側奥の発掘現場の方からこちらに向かっており、つながるようです。

 

 発掘調査地東端より、西の千葉市街地の方向を見る。中央やや右に隣のガソリンスタンド。やや左前方の台地上が都小学校で、向台貝塚(縄文早期〜前期)があります。

 酷暑の中、調査員の方々が黙々と作業されているのが、印象的でした。こうした調査員の方々の日々の作業の積み重ねにより、千葉市の歴史が救われているのだ、と感じいった次第です。

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