遺跡めぐりー巨大貝塚の群れpart4 

千葉山・園生貝塚周辺を歩く

【日 時】 2001年5月13日(日)10:00-12:30 13:30-16:00
【集合場所】千葉都市モノレール「スポーツセンター駅」
【コース】 
スポーツセンター駅(集合)→千葉山〔星宮塚→星宮塚古墳群(勝田田古墳群・千葉家旧墳墓群)〕→園生市民の森内古墳・遺跡→園生橋→勝田田遺跡→勝田田南遺跡→草野水路(渡戸)園生貝塚→穴川駅(解散)

   

1.千葉山

 国道16号線からあやめ台小学校へ向かう道に入った付近を中心とする一帯が千葉氏代々の墓地との伝承がのこる「千葉山」です(穴川インターチェンジをはさんだ園生貝塚も一部千葉山に入るらしい)。この千葉山は、千葉氏にとって、どうも特別な地であったようです。千葉寺−千葉城−千葉神社とほぼ南北、一直線に結ぶことができますが、その延長線上、千葉神社から4kmの地点にこの千葉山が位置する、という指摘があります。北斗信仰との関連も考えられます。
  星宮塚の前で、千葉市教育委員会の設置した説明版を読む。

 現在、大日寺(轟町)に残る千葉氏代々の五輪塔は、もともとこの園生千葉山にあったという伝承があります。江戸時代、園生村と千葉村の境界争いで、敗れた千葉村の村人が腹いせに、ある夜、五輪塔を大日寺(当時、院内町)に持っていってしまったというのです。第二次大戦後、大日寺が院内町から轟町に移転したのに伴い、五輪塔も現在の地に移りました。

 星宮塚の上の祠。いつも花を供えている方がいるそうです。

 「ここにお参りすると願いごとがかなうよ」とあやめ台小学校の5年生が教えてくれました。

 道路をへだてた塚群のある空き地側から見た星宮塚。4月の下見のときの、写真。だいぶ侵食されていますが、塚状の地形であることがうかがえます。

 4基のこるうち、千葉市の文化財に指定されているのはこの塚だけのようです。

 星宮塚の側から見たほかの塚群。星宮塚の、道路をへだてた空き地にあります。3基のこっており、ほぼ南北一直線に並んでいます。画面中央付近の暗い部分に現在のこる一番南の塚(3号墳と仮に呼びます)があります。

 明治時代に確認されただけで、11基ありました。数年前まで、4基残っていたようですが、最近1基(4号墳)、壊されてしまったようです(こちらの塚群は千葉市の文化財にまだ指定されていません)。

 現在、残っている3基のうち、いちばん北の1号墳。写真中央右、道路沿いに説明版が見え、星宮塚との位置が確認できます。
 2号墳。
 3号墳。現状ではいちばん大きいようです。 

 これだけの塚をつくるとなると、かなりの力をもった人物の墓であろうとのこと。伝承のとおり、千葉宗家の墓である可能性は少なくありません。

 遺跡地図には「勝田田古墳群」と呼んでいるものがあります。ただし古墳といっても、平安〜鎌倉時代の塚墓であろうと考えられています。明治時代に、付近の学校の先生たちが、発掘したとき、平安〜鎌倉時代の骨壷が出土しています。

 

2.園生市民の森内古墳・遺跡

 あやめ台小学校の前を通り過ぎ、園生市民の森に向かいました。
 道路沿いの入り口から入って、数メートルのところに「園生市民の森内古墳」があります。園生貝塚研究会の会員が発見した古墳であり、お役所関係の遺跡地図にはまだ掲載されていない遺跡です。なお1917年(大正6年)の地図には、該当する付近に古墳のマークがついていました。
 園生市民の森内古墳。円墳です。
 「古墳」としていますが、周溝の跡が見あたらないので、古墳時代の古墳ではなく、星宮塚と同じく中世の塚墓である可能性が高いとのことです。現在、住宅地などになったりしていて確認できませんが、この古墳も星宮塚古墳群も一体の古墳群であり、これらを一部とする大墳墓群があった可能性もあるのではないでしょうか?
 森の中を進むと、「園生市民の森内遺跡」です。この遺跡も園生貝塚研究会の会員発見の遺跡です。縄文時代後期の土器片がみつかっており、巨大環状貝塚、園生貝塚をつくった集落のひとつがここにあったと推測されます。
 北側に谷が入っており、水源がありました。
 この谷に面した緩やかな斜面は、なんとなく人為的な感じがする・・・・とか。この下に縄文人の住居跡が眠っているのでしょうか?
 縄文時代後期、加曾利B式の土器片が見つかっているとのこと。土器片などの遺物が落ちていないか?地表を注意深く観察する。
 微細な縄文土器片のほか、須恵器片(古墳時代以降)も落ちていました。須恵器片は新発見です!

 京葉道路上にかかる園生橋をわたり、園生貝塚の対岸、勝田田遺跡(縄文時代後期)へと向かいます。

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▼(3)園生貝塚へ

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