遺跡めぐりー戦国動乱の古城址を歩くpart2 

土気城址を歩く(1)

【日 時】 2001年2月25日(日)10:15-15:00
【集合場所】土気町内会自治会館
【コース】 
(午前)
自治会館→(土気の町並み)→馬出曲輪→貴船神社・土塁→三の曲輪→日航研修センター入口→二の曲輪・大鼓家→クラン坂→(金谷曲輪)→三叉路
→(もどる)→上之台→新地→見土堀→井戸沢曲輪→入リノキテ→(県神社への南北の道路)→御経塚→自治会館(昼食)

(午後)
自治会館→善勝寺→小食土廃寺(昭和の森)→荻生道遺跡(〃)→長塚古墳群→黒ハギ遺跡→本寿寺(解散)

【地図・空撮写真】   
■1/25000地形図 東金(南西) 国土地理院  
■空撮 土気城周辺(1983年 広域)    
■空撮 土気城(1974年)    
 土気城主郭の位置 北緯35度31分51秒,東経140度17分29秒  
 ※目じるし 日航研修センター(閉鎖中)
  

1.宿城から土気城本丸をめざして

 10:15土気町内会自治会館に集合。まず講師の先生より、土気地域の歴史の概略の説明を受けました。10:45いよいよ出発です。目指すは土気城の本丸(城の内)。いざ出陣!気圧配置は冬型。寒そうな人もいますが、この厳しさは、お城めぐりにはぴったりです(強がり)。

 実は、広い意味では、ここはもうお城の範囲に入っているのです。戦国時代、関東では、城郭の外郭に、防衛施設をもつ町場(城下町)がつくられました。この町場を「宿城」と呼んだのですが、この自治会館のある旧集落はまさに土気城の宿城なのです。自治会館に接したお宅の玄関には「城門」という屋号が大きく掲げられています。

 「松原宿」。この町は、中世以来の町並みを残している点で非常に貴重です。道も、昔の町並みにしては、ずいぶん広い道です。この道は「土気往還」といって内房外房(松ヶ丘--鎌取--野田(鎌取)--土気--大網間)をむすぶ街道の一部をなします。「近世=江戸時代にはすでにこの道幅だった」といわれていますが、土気城が機能していた戦国時代にはどうだったのでしょうか?ある研究者は「今後の検討課題」としています。

 ところでここの町並みは、あの生実の町並みとよく似ています。

 歴史のありそうな倉のあるりっぱなお宅が並びます。秀吉軍の小田原征伐にともない土気城が廃城になった後、江戸時代になると、このかつての城下町は、大網・本納方面の漁獲物資等を内房方面に運搬する際の、人馬の継立をする、いわゆる継場として栄えたといいます。
 町並み(宿城)が終わって、いよいよ土気城内に入ります。馬出曲輪です。右手の林の部分は、空堀です。左側にも空堀があります。一般に城の出入り口のところは、激しい戦闘が行われるところですので、攻撃しやすくかつ防御しやすいように、空堀と土塁で囲まれた小区画をつくることが行われました。それを「馬出」(うまだし)と言います。「曲輪」(くるわ)とは城の区画(近世=江戸時代にいう「丸」)のこと。東へ向かっていた道は大きくカーブして、城の中心部=主郭(江戸時代以降の言葉でいう本丸)のある北東へ向かいます。
 写真右手の林(南)は、馬出曲輪を囲む空堀「外堀」です。この空堀は、城の外周をなすもので、ここを突破すると、城内です。土気城のこの馬出曲輪は城全体の南端に位置し、三角形の形をしてます。馬出としてはかなり広い曲輪ですが、馬出に該当するとして「馬出曲輪」と呼んでいる研究者がいるので、ここでもそう呼びます。
 道路左側(北)の様子。道路わきは現在、住宅等が建っており、埋め立て・削平されているようですが、少しはなれたところには、土塁と空堀がよく残っています。写真中央先に土塁跡。上に建物が建つほど大きい!?(^^)土塁の左には外堀。土塁・堀は、写真の向こう(北)に向かってずっと続きます。なおその堀の外側(写真左奥)には、「鍛冶屋敷」という地名が伝わっています。鍛冶は火事を起こしやすいので(シャレどころではない!)集落のはずれに置かれることが多いのです。
 馬出曲輪内を進行すると、三ノ曲輪の虎口(虎口とは城の入口のこと)が見えてきました。両脇手前(ガードレールが見えるところ)には、空堀、樹木で鬱蒼としているところは、土塁。
 三ノ堀。うーん、たいへん大きな堀なのですが、樹木が生い茂っていることもあり、写真ではよくわかりませんね。他の堀も写真だとこんな感じになってしまいます。
 三ノ曲輪の虎口を形成する土塁とその上に祭られている貴船神社きんねんさま)。土気城の由来をかいた説明板が設置されています。地元の方が設置したそうです。郷土の歴史と文化を大切にしようとする地元の方々の熱意がうかがえます。

 写真、この土塁の右下には、大きな空堀「三の堀」が残っています。この土塁を突破すると、いよいよ三の曲輪。

 三ノ曲輪です。広い区画です。写真、左に教育委員会の設置した説明板。さらにその左に祠があり、馬頭観音がお祭りしてあります。

 左端の鉄塔を作るとき、地下3mのところから、焼土の跡と鉄砲玉が出土したとのことです。以下に述べるように、土気酒井氏が北条の大軍の攻撃をうけた永禄8年(1565年)には、三ノ曲輪はまだ城外であり、むしろ主戦場であったのではないか、と見る見方がありますが、その見方を裏付けるものかもしれません。

馬頭観音の祠には、中世のものと思われる五輪塔の一部がおかれてあります。
  二ノ曲輪の虎口が見えてきた。道路の両脇の樹木があるところには、空堀(二ノ堀と一ノ堀)と土塁があります。白く見えるのは、二ノ曲輪内にそびえる日本航空研修センターの建物です。

 日本航空研修センターの敷地内の一部で行われた発掘調査では、青磁の酒海壺という当時の骨董品のほか、鉄砲の弾とその材料である銅銭もいっしょに出土した、とのこと。

 むむっ、残念、無念・・・二ノ曲輪の守りはかたい!

 二ノ曲輪の大半、その奥(北)の善勝寺曲輪、そしていわゆる本丸である「実城(城の内)」は、日本航空研修センターの敷地になっていますが、現在、同センターは閉鎖中。本丸=実城には入れません。しかし道は、二ノ曲輪の真ん中を貫き、本丸=実城(城の内)方向に向かいますので、気をとりなおして進みます。(写真左、ガードレールの下は巨大な空堀「一ノ堀」。敷地内、大土塁が左の方向に延びます。)

 ガードレール下の「一ノ堀」の底を覗く。「一ノ堀」は二ノ曲輪の南西を囲みます。西に位置する井戸沢曲輪の外堀と並んで、土気城で最大規模の堀です。地元に伝わる絵図(鳰川家絵図)には「一ノホリ、長七拾五間また弐拾五間(計百間)、横六間、深五丈(一部参丈)」と記されているそうです。このような巨大な堀は鉄砲の使用を意識しています。
 二ノ曲輪虎口右側の土塁跡。その右には空堀。この虎口は食い違い状になっており、道はクランク状に屈曲しています。空堀は一ノ堀、二ノ堀と二重になっており、外側の二ノ堀(写真右側の堀)は、内側の一ノ堀より時代的に古い堀です。千葉城郭研究会の遠山誠一氏は、永禄年間には、ここからが当時の城の範囲で、三ノ曲輪、馬出曲輪は、酒井氏が北条氏の傘下に入った天正年間に城を拡張した結果、と見ています。とすれば、三ノ曲輪、馬出曲輪は、豊臣秀吉来襲に備えての拡張・造営であった可能性大でしょう。
 二ノ曲輪です。日本航空研修センターの白い建物がそびえます。二の曲輪もたいへん広い曲輪です。その真ん中を貫く道路の東側には「太鼓家(たいこや)」あるいは「御蔵場」という地名が残っています。写真手前の芝生の部分がその「太鼓家」です。現在グラウンドとテニスコートになっていますが、ここにも土塁が残っています(撮影地点の背後)。

 建物の向こうの端付近には「御蔵前」という地名が残ります。その付近から研修センターの建物の下付近を横断して、こちらまで古い堀が通っており、この道路(クラン坂、写真右)と結合していた、とのことです。なお本丸=実城(城の内)は、写真のもっと右になります。

 本丸=実城には入れないので、その方向を横目で見ながら、道なりにさらに進みます。ものすごい切り通しの下り坂になります。この坂道は、クラン坂またはクラミ坂と呼ばれています。昼なお暗いところなので、そう呼ばれている、ともいいます。あるいは「倉の坂」から来たともいいます。写真の左側の急斜面の上が本丸=実城になります。クラン坂は、堀の意味があり、堀底道であったでしょう。
 くだっていくと、三叉路になっています。左にいくと、金谷の集落。右にいくと、南玉へ出ます。この道は、尾根をつたって敵が近づくのを阻止する堀(大堀切り)であることがわかります。三叉路の又の部分にあたる写真正面の尾根の上は人為的に削平して平場が作られています。この道を通って近づいてくる敵にたいして頭の上から狙いうちする施設でしょう。

 永禄8年(1565年)の北条氏の来襲の際には、北条側についた同族の東金酒井氏が「金谷口」に攻めてきて、城主胤治の嫡子康治がこれを撃退した、と記録にあります。まさしくこのクラン坂こそその舞台のひとつだったにちがいありません。

 デジカメの画像では明るく映ってますが、肉眼ではひじょうに暗いです。写真の切り通しの向こう側は、急斜面。土気城の東側をみるかぎり、完璧といってよいほどの自然の要害であることがわかります。さらに要所には平場=腰曲輪が設けられ、防衛性を増しています。本丸=実城に連なる金谷側の尾根(写真切り通しの右上)には、そのうちでも大きな曲輪があります(金谷曲輪)。

 切り通しにはところどころに横穴が掘ってあります(ゴミが廃棄されてますが)。「やぐら」(中世のお墓)の可能性がある、と、いうことでした。

 「やぐら」とは、13〜15世紀に鎌倉を中心に造営された横穴式の納骨・供養施設(要するに、お墓)です「やぐら」は、鎌倉にしかない、と思われていたものが南房総にもあったことが数年前、確認され、マスコミでも話題となりました。最近、大網白里町の道塚やぐら群が発見され、それが北限とされています。ここ土気町にもある、とすれば、新発見です。本格的な調査の待たれるところです。※追記:クラン坂の穴について、渡邉太助氏より米軍の九十九里浜上陸にそなえて作られた旧日本軍の施設であるとの指摘がありました。

 あまりにもすごい切り通しなので、見とれて、はぐれてしまう参加者が出ました。それにしても、そうでなくても暗くて寂しいところなのに。やぐらとは・・・こういうところは一人になるとまた格別の味わいがある(^^;

 
 土気城の東端に到達したので、もときた道を引き返し、土気城の西側部分を構成する井戸沢曲輪、さらに土気城の北西、初代酒井小太郎定隆の墓所と伝わる、御経塚へと向かいます。

土気城址を歩く(2)―井戸沢曲輪・御経塚のページへ

 

 ※ たかしpart3さん、yygucciさん撮影の写真を利用させてもらっています。

延宝7年(1679年)当時の土気城の空堀 

―領主大久保加賀守にたいする代官の報告書より

名称 深さ 長さ
外堀 3丈5尺
三ノ堀 道右 3丈 8間 30間
道左 3丈 5間 25間
二ノ堀 道右 2丈 15間
道左 3丈 6間 30間
一ノ堀  3丈 25間
5丈 6間 75間
  井戸沢曲輪西の大規模な堀(見土堀?)については記載がない。そのほかさらに、地形や地割から堀の存在が推定されるところ、堀があったという伝承があるところが何箇所かあり、実際、いくつかはその痕跡を確認できる。下見では井戸沢曲輪北西に堀の跡を新たに発見した。

 

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