2003年2月23日(日)

平山の縄文時代をあるく

 

― 緑区平山町 

 


 今回は縄文貝塚に注目して平山地区を歩いてみます。仁戸名川(支川都川)は遡ると平山の台地で二つに分かれますが、その台地を横切るように菱名貝塚台畑貝塚築地台貝塚といった縄文時代中・後期(約5000年〜3000年前)の大型貝塚が並びます。これらの貝塚を「平山地区貝塚ベルト」と呼ぶ専門家もいます。これらの貝塚に関連して、従来の貝塚観・縄文人観を覆すような新たな研究成果が提示されつつあるようです。なぜこの地域に時を同じくして縄文人たちは貝塚をつくったのか、歩いてみましょう。

 

 ■コース(10:00-12:30

バス停「赤井寮」→(高有道)→菱名古墳群跡・菱名貝塚→菱名台古墳群跡→大橋戸→高有→台畑貝塚→台畑古墳群跡→高有遺跡→立堀城→越川戸遺跡→橋作→築地台貝塚(解散)

   ※ 途中、水道・トイレなどの設備がないのでご注意ください。

●参考

イベントお知らせページ2003年2月

 

平山の歴史的景観

| 立堀城(仁戸名川谷地、支川都川本流谷地) | ひ 菱名古墳群   平山谷地  平山城(平山妙見下)|む 向菱名(菱名日向守屋敷跡)

1/25,000地形図:蘇我(北西)

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定をよんで見ましょう。たいへんよい地図なのですが、閲覧以外の利用はできません。

 大網街道沿いバス停「赤井寮」近くに集合。コース全体についての説明。実はすでにここは菱名古墳群が展開していた場所です下の写真の菱名貝塚の貝層部付近を中心に展開)遺跡地図に掲載される以外にも多くの古墳があったようですが、かなり以前に削平されたようです。

 菱名貝塚(縄文時代中期・後期)。標高37m平坦な台地上に立地。貝層は南北100m、東西90m。東側に開口した馬蹄形の大型貝塚。200mほど東に下ったところには仁戸名川(支川都川)が流れる。主な貝種はイボキサゴ、ハマグリ。縄文人は仁戸名川をくだって海に出て漁をしていたのにちがいないと、考えられてきました。専門の先生から、最新の研究によれば、この菱名貝塚やこれから行く台畑貝塚、築地台貝塚の貝は、村田川河口で採取されたものである可能性がある、というお話がありました。もっと北の都川本流沿いの多部田貝塚や都川本流最奥部の誉田高田貝塚の貝には村田川河口で採取されたものがあることがわかってきた、ということです。従来、何となく信じてきた話を覆す驚くべき話です。参加者一同、興奮。

 

 菱名貝塚の南側に道がとおります。この道は地元の人が「高有道」(タカアリミチ)と呼ぶ古道で、蘇我野(東京湾岸)―大厳寺(生実の北隣)―赤井―土気往還(大網街道)―平山―東金道(旧)と結びます。注目すべきことは、菱名貝塚―台畑貝塚―築地台貝塚を見事につなげていることです。検証することは難しいですが、縄文人が使っていた道である可能性もあります。高有道は、立堀城(さらに馬加系千葉氏の居城、平山城)と蘇我野・生実方面(原氏の本拠)を結ぶ道として、気になっていたのですが、説明を聞いてますます重要な道に思えてきました。先生は漁場の候補として村田川水系を使える生実の谷を挙げていましたが、陸路、高有道を使っていく蘇我野方面も候補になるのでは?研究の進展が待たれます。われわれも高有道を進みます。

 仁戸名川(支川都川)。 橋は高有道をわたす橋です。時代により川の位置は多少変わる可能性がありますが、最近では道路建設により川の位置が変えられたようです。この付近は「大橋戸」という字名であり、戦国時代、立堀城が機能していた頃は大きな引橋があったという伝承があります。このあたりからの景観については平山の歴史的景観 ―立堀城をご覧ください。

 台畑貝塚(縄文時代中期・後期)。真っ白いのは貝殻。標高39m、南北100m、東西90mを範囲とする点在貝塚で、何箇所かに貝殻散布が見られます。写真(南東向き撮影)左に見えるのはそのひとつです。写真中道路わき、人の立っている右側の畑にも白いものが見えますが、もうひとつの個所です。主な貝種はイボキサゴ、ハマグリ。写真の道は高有道です。貝殻散布の見られる範囲の真中を貫通します。台畑貝塚は石器が比較的多くみられ、石器の製作場所とも想像されます。

 (注)遺跡名称としては「ダイハタカイヅカ」が定着しているようですが、字「台畑」について和田茂右衛門1978は「ダエバタケ」と記録しています。

 すぐ近くですので、高有道から少し離れ、立堀城に(辺田町字雲中)立ち寄りました。写真は、立堀城の入り口に立つ道標を兼ねた馬頭観音。「正面左 蘇我野道」「右 野田道」とあります。

 立堀城の縄張り図は、中世城郭研究会のトップページをご覧ください。地形によって台形をしているが、基本的には110m×140mの方形単郭式で、最終的には戦国時代後期のものと見られます。

 

 

 立堀城虎口。土塁が切れています。手前は土橋。両側は空堀です。お父さんといっしょに参加したチビッコもホンモノの中世の城を見て思わず声をあげています。

 郭内部は竹薮がひどいため、早々に退却し、外周をめぐる堀底を歩いていきます。左は土塁。もともと堀は現状より2,3mは深いのではないか、とのことでしたが、現状でも掘底から見上げる土塁は見ごたえがあります。

 南西にも虎口と土橋があります。写真は土橋から虎口を指して説明しているところです。

 櫓台を見上げる。南東には櫓台と思われる場所があります。単純な縄張りのようでいて、土塁を屈曲させて横矢をかけているところなどもあり、あなどれません。なかなかやります(笑)。

 なお千葉市においては、隣接地の斎場の緩衝緑地の意味をかねて立堀城を保存する方針と聞きます。

 越川戸遺跡。古墳時代後期から奈良平安時代の住居跡。古代寺院跡。瓦塔が出土しました。2002年に発掘調査が行われました。現在は多目的グラウンドになっています。すぐ近くの山林には古墳らしき地形もあります。越川戸遺跡は縄文時代の遺跡でもあります。付近の畑には縄文土器も多く見られます。台畑貝塚の南東、すぐ近くですが、貝殻散布は見られず、貝塚は見当たりません。高有道にもどります。

※「越川戸」は、千葉市文化財調査センター等は、「コシカワド」と呼んでいますが、地元現地住民、『千葉市史』は「オッカワド」ないし「オッカド」と呼んでいます。山下七郎兵衛吉継1705は、「野田合戦の時武者一騎駒をはやめて逃行を跡より追かけはなつ矢に当たり此川を越馬より落ちて打死したりと言それより此所を越川戸(おっかわど―編集者の注か)と言り又落川戸ともかけり」と、地名の由来を伝えています。地名については、こちら

 高有道を進むと、台畑貝塚の台地を下り、もうひとつの仁戸名川の支流が流れる平山谷地に出ます(写真は下見のときの撮影)。字橋作。正面前方の集落は字向町(むかいちょう)。築地台貝塚はその上、台地上に立地します。景観についての説明はこちら

 築地台貝塚(縄文時代中期・後期・晩期)の南端。道は高有道です。貝層の東に接しています。築地台貝塚は標高40m、南北110m、東西110m。南東部の斜面に向かって開口する大型貝塚です。主な貝種はイボキサゴ。

(注)ここの遺跡名称については「つきじだい」、「きじだい」と読む立場があります。地名の件については、こちら

 築地台貝塚西側。貝殻散布状況は感動的でした。すごすぎて遠くから貝殻と気が付かないくらいなのです。

 縄文人の村は一般に縄文時代中期にいったん断絶するのですが、ここでは縄文時代中期末にはいちはやく村を形成したようです。晩期まで続いている貝塚です。製塩土器もみつかっているとのこと。貝の採取の時期について調査が行われているのですが、それによると春が比較的多いのですが、一年中採取していたようです。時代ははっきりしないのですが、カワウソの骨も出土しているそうです。

 実に充実した内容の遺跡めぐりになりました。説明してくださった先生、ありがとうございました。

 ・yygucciさん、たかしpart3さんから提供してもらった写真を一部使用させてもらっています。

 

(参考サイト)

  こちらもご覧ください。とくに菱名貝塚、台畑貝塚、築地台貝塚等について掘り下げた説明があります。
園生貝塚研究会 on web 「貝塚を訪ねて」のページに菱名貝塚、台畑貝塚、築地台貝塚等が取り上げられています

立堀城のページがあります。

平山の歴史的景観 ―立堀城

 

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