最近、緑区大木戸立山城址南方でかなり長い土塁状地形を目にしました。城の土塁というより中世の牧の土手ではないか、と思っていたところ、先日おこなわれた加曽利博物館の郷土史講座で「下野牧」(千葉市内では花見川区作新台、長作、天戸、花島一帯に該当)の土手が取り上げられました。そこで花見川区の方に用事があったついでにその付近を通ってみました。ありました〜♪ たぶんこれです。
南西の作新台・長作町側の土手が残っていることは確認されており、千葉市教育委員会の説明版・標柱が立っていますが、ここ南東の花島・天戸町側の方も残っていたのは発見でした。(ただし駐車場等で削平されつつあります。)
※武士と馬とはきってもきれない関係がある。馬は中世武士にとって戦車なのである。軍馬として使える馬は、若い雄で、しかもそのときどきでベストコンディションの状態にあるえりぬきのものだけである。いざというときに備えておくためには、相当の数の馬を常時プールしておく必要がある。武士団の発祥ひいては日本の中世を理解するうえで「牧」(まき=野馬の放牧場)の存在は重要である。
江戸幕府もまた直轄の牧をもっていた。「下野牧」は、現在の松戸市から千葉市の北西にいたる広大な牧の南東部分にあたる。野馬が外に出ないように牧の周囲には延々と続く土手が築かれた。これが野馬除土手(のまよけどて)である。この江戸時代の牧の運営に関しては史料が多少存在しており、史料のない中世の牧の様子を推察するうえでも、重要な遺跡であろう。 |
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